愛のかたち
クリスマス礼拝宣教 「愛のかたち」 ヨハネ1章1~18節
メリークリスマス。救い主イエスさまご降誕をお慶び申し上げます。
2010年も残すところ僅かとなりましたが。今年も世界で、日本で、また私たちの身近なとことろで様々な出来事がありました。年々ますます世知辛い世の中、人が人として生きにくい社会、人びとのうちに先の見えない閉塞感と重苦しさが漂い、不安な時代になっていくように思えます。
神の独り子・救い主イエス・キリストはその闇のような世界に、又「すべての人を照らすまことの光」として来られ、神の言として「肉となり私たちの間に宿られたのです」。これがクリスマスのほんとうの意味であります。
① 闇と光
5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解できなかった」とありますが。
神様の御目からご覧になれば、まさに暗闇のようである私たち人の世のただ中に「輝く光として与えられた神の救い」イエス・キリストであります。
しかし人の世はこのみ神の「愛のかたち」を理解できなかったのであります。救い主・メシヤが貧しい家庭に、しかも家畜小屋で生まれえましょうか。十字架刑に処せられるなどありえましょうか。それが世の思いでした。
神の愛と救い主は人の姿をとって現わされた。光はすでに射し込んでいるにも拘わらず、この世の人々はまことの光であるイエス・キリストに敵対し、無関心で受け入れない。 その事がもはや闇なのだと、もっといえば罪の滅びを表すのだと聖書は言っているのです。
時代や社会の闇というものは確かに私たちの現実問題としてあるわけでありますが。
しかし聖書は根本的な闇は、まことの神に背を向け、敵対し、受け入れずに自己中心に生きるそのことこそ闇だと言うのです。人の世の常として人生の荒波や試練がやってきたときも、まことの光であられるイエス・キリストを迎え入れ、その主と共に生きてゆくとき、世にはない平安と希望を戴くことができるのであります。それだけではなく、神さまの恵みのみ業を仰ぎ見ることができるでしょう。それはちょうど暗い部屋の中でカーテンを開けた時射し込んで来る朝日のようです。閉ざされていれば暗闇のままですが、しかし私たちが心のカーテンを開けてまことの光なるキリストを迎え入れるなら、神の愛と救いのみ業が私たちの心と日常に充満されるのです。
② 神を神とする証し人
さて、本日の個所の15節に、バプテスマのヨハネという人物が紹介されています。 なぜここで彼のことが記されているのでしょうか。それは7~8節にありますように「彼は光ではなく、光について証しするために来た」ということを強調するためであります。
この福音書はかつてバプテスマのヨハネの弟子で後にキリストの12弟子の一人となったヨハネによるものですが。同じ名でややこしいのですが。そのヨハネが、バプテスマのヨハネの正しい役割について強調する必要を感じていたのであります。そこには恐らくヨハネへの過大評価を是正する必要があったのです。このヨハネは当時、多くのユダヤの庶民からだけでなく、ユダヤ教の中枢にいた律法学者や祭司からも好意的に見られ、この福音書が書かれたエフェソスにはヨハネの影響を受けた弟子たちの群があったのであります。(使徒19:1-7)
しかし、バプテスマのヨハネは「すべての人を照らすまことの光」ではありません。神の独り子イエス・キリストのほかに救い主としての権威は与えられていないからです。
彼は命そのものではありませんでした。ただ命と光について証しし、それを指し示すために、又、イエス・キリストの道備えをなすために生きたのであります。
今日、多くの人々がこの部分で躓きます。教会や牧者、伝道者は常にまことの光なるキリストを指し示す者でなければなりません。また信徒も、それがどんな牧者、伝道者であっても宣教の中から神のみ救い・キリストを受け取ってゆく感性が必要です。最近まで教会に消火器が投げ込まれるという事件が起こりましたが。犯人が捕まったら信徒であったということでした。彼は教会の牧師に依存し、信奉する程であったようで、牧師が教会を移るとキリスト教会そのものを逆恨みして犯行に及んだとのことでした。教会も、又牧師も、どんな立派な伝道者も、信仰者も、キリストを指し示す者に過ぎません。キリストに出会っていくための道備え、役割を果たす者に過ぎないのです。その意味でバプテスマのヨハネは、ほんとうにキリスト者としてのよい手本と言えましょう。私どももまた、人を見るのではなく、神を見、神を神として証ししてゆく者であり続けたいものです。
③ 受肉の言(ロゴス);イエス・キリスト
聖書に戻りますが、1~2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。ここには、初めに言は神と共にあったということが強調されています。つまり、神と御子イエス・キリストは世界のはじまりの原初より共にあったというのです。ですから「言」は神ご自身の御心そのものであるといえます。そして御子イエス・キリストは神の言葉として御心をなすお方としてこの世界に、人々のもとに来られたのであります。
一方、「ことば」というものは、一般的にも「意思や事がらを伝達するため」に大事なものであります。又「相互の理解や関係を築き、つないでいく」ための鍵ともなります。
聖書において「言」は神を指すものでありますが、神は御子イエス・キリストを目に見える「ことば」、いわば「受肉した神のことば」として私たちの世界にお遣わしになり、このイエス・キリストを通してご自身の御心を明らかにされたのであります。
話がとびますが。
今年も二人の日本人の方がノーベル物理学賞を受賞されました。何の研究が認められたかといいますと。私たち、世の中の身の回りのものは炭素Cと炭素Cが結合した有機化合物でできているそうですが。CプラスとCマイナスが結合するのに対して、CマイナスとCマイナスでは互いに反発し合うのです。しかしそこにパラジウムという化学物質を媒介することによってそれらを結合させることができるそのことを発見したというのです。
この事から思いますのは、私たちと神さまとの関係についてであります。私たちと神さまとの関係は人の罪のゆえに反発し、結ばれることができなかったのであります。けれども神さまがお遣わしになった御独り子イエス・キリストによって、私たちは神と結びつけられるのです。
さらにこの和解の奥義について述べるなら、神の独り子イエス・キリストは人間の姿となり、その苦しみや悩み、貧しさ、悲しみや不安、そして死をも担われることによって、罪の贖いと救いを成し遂げてくださったのです。先ほどのパラジウムの媒介ではありませんが、まさにそのようにしてキリストは、神と人を結びつける仲介者となられたのです。
ここにキリストをまだ受け入れていらっしゃらない方がいらっしゃったら、ぜひこのイエス・キリストによる神さまの和解の福音を、今この時、受け取って戴きたいと思います。又、すでにクリスチャンであられる方は、いま一度14節にあるように、み神の「言が肉となって、わたしたちの間に宿られたこと。また、それは父なる神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちている」。そのことを深く心に刻んで歩んでまいりましょう。
本日は「愛のかたち」という宣教題が与えられました。
クリスマスという救い主の誕生を記念するこのとき、神さまがなされた愛のかたちについて、ヨハネ3章16節にこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
それは神さまからの素晴らしいプレゼントです。それも独り子をお与えになるというとてつもなく大きな犠牲、深い愛によるプレゼントであります。
フィリピ2章6節以降にはこう述べられています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
神の言なる主の愛はまさに人の思いを遥かに超えた「かたち」をとって世に現わされました。神と独り子なるキリストが私たちに対してなしてくださったこの「愛のかたち」をもう一度心に留め、クリスマスの恵みに感謝いたしましょう。
この愛によって今生かされている私ども一人ひとりもまた、神と人とを結びつけることのできる唯一のお方「イエス・キリスト」をヨハネのように証しし続けていきましょう。メリークリスマス。救い主イエスさまのお誕生を心からお祝いしましょう。
メリークリスマス。救い主イエスさまご降誕をお慶び申し上げます。
2010年も残すところ僅かとなりましたが。今年も世界で、日本で、また私たちの身近なとことろで様々な出来事がありました。年々ますます世知辛い世の中、人が人として生きにくい社会、人びとのうちに先の見えない閉塞感と重苦しさが漂い、不安な時代になっていくように思えます。
神の独り子・救い主イエス・キリストはその闇のような世界に、又「すべての人を照らすまことの光」として来られ、神の言として「肉となり私たちの間に宿られたのです」。これがクリスマスのほんとうの意味であります。
① 闇と光
5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解できなかった」とありますが。
神様の御目からご覧になれば、まさに暗闇のようである私たち人の世のただ中に「輝く光として与えられた神の救い」イエス・キリストであります。
しかし人の世はこのみ神の「愛のかたち」を理解できなかったのであります。救い主・メシヤが貧しい家庭に、しかも家畜小屋で生まれえましょうか。十字架刑に処せられるなどありえましょうか。それが世の思いでした。
神の愛と救い主は人の姿をとって現わされた。光はすでに射し込んでいるにも拘わらず、この世の人々はまことの光であるイエス・キリストに敵対し、無関心で受け入れない。 その事がもはや闇なのだと、もっといえば罪の滅びを表すのだと聖書は言っているのです。
時代や社会の闇というものは確かに私たちの現実問題としてあるわけでありますが。
しかし聖書は根本的な闇は、まことの神に背を向け、敵対し、受け入れずに自己中心に生きるそのことこそ闇だと言うのです。人の世の常として人生の荒波や試練がやってきたときも、まことの光であられるイエス・キリストを迎え入れ、その主と共に生きてゆくとき、世にはない平安と希望を戴くことができるのであります。それだけではなく、神さまの恵みのみ業を仰ぎ見ることができるでしょう。それはちょうど暗い部屋の中でカーテンを開けた時射し込んで来る朝日のようです。閉ざされていれば暗闇のままですが、しかし私たちが心のカーテンを開けてまことの光なるキリストを迎え入れるなら、神の愛と救いのみ業が私たちの心と日常に充満されるのです。
② 神を神とする証し人
さて、本日の個所の15節に、バプテスマのヨハネという人物が紹介されています。 なぜここで彼のことが記されているのでしょうか。それは7~8節にありますように「彼は光ではなく、光について証しするために来た」ということを強調するためであります。
この福音書はかつてバプテスマのヨハネの弟子で後にキリストの12弟子の一人となったヨハネによるものですが。同じ名でややこしいのですが。そのヨハネが、バプテスマのヨハネの正しい役割について強調する必要を感じていたのであります。そこには恐らくヨハネへの過大評価を是正する必要があったのです。このヨハネは当時、多くのユダヤの庶民からだけでなく、ユダヤ教の中枢にいた律法学者や祭司からも好意的に見られ、この福音書が書かれたエフェソスにはヨハネの影響を受けた弟子たちの群があったのであります。(使徒19:1-7)
しかし、バプテスマのヨハネは「すべての人を照らすまことの光」ではありません。神の独り子イエス・キリストのほかに救い主としての権威は与えられていないからです。
彼は命そのものではありませんでした。ただ命と光について証しし、それを指し示すために、又、イエス・キリストの道備えをなすために生きたのであります。
今日、多くの人々がこの部分で躓きます。教会や牧者、伝道者は常にまことの光なるキリストを指し示す者でなければなりません。また信徒も、それがどんな牧者、伝道者であっても宣教の中から神のみ救い・キリストを受け取ってゆく感性が必要です。最近まで教会に消火器が投げ込まれるという事件が起こりましたが。犯人が捕まったら信徒であったということでした。彼は教会の牧師に依存し、信奉する程であったようで、牧師が教会を移るとキリスト教会そのものを逆恨みして犯行に及んだとのことでした。教会も、又牧師も、どんな立派な伝道者も、信仰者も、キリストを指し示す者に過ぎません。キリストに出会っていくための道備え、役割を果たす者に過ぎないのです。その意味でバプテスマのヨハネは、ほんとうにキリスト者としてのよい手本と言えましょう。私どももまた、人を見るのではなく、神を見、神を神として証ししてゆく者であり続けたいものです。
③ 受肉の言(ロゴス);イエス・キリスト
聖書に戻りますが、1~2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。ここには、初めに言は神と共にあったということが強調されています。つまり、神と御子イエス・キリストは世界のはじまりの原初より共にあったというのです。ですから「言」は神ご自身の御心そのものであるといえます。そして御子イエス・キリストは神の言葉として御心をなすお方としてこの世界に、人々のもとに来られたのであります。
一方、「ことば」というものは、一般的にも「意思や事がらを伝達するため」に大事なものであります。又「相互の理解や関係を築き、つないでいく」ための鍵ともなります。
聖書において「言」は神を指すものでありますが、神は御子イエス・キリストを目に見える「ことば」、いわば「受肉した神のことば」として私たちの世界にお遣わしになり、このイエス・キリストを通してご自身の御心を明らかにされたのであります。
話がとびますが。
今年も二人の日本人の方がノーベル物理学賞を受賞されました。何の研究が認められたかといいますと。私たち、世の中の身の回りのものは炭素Cと炭素Cが結合した有機化合物でできているそうですが。CプラスとCマイナスが結合するのに対して、CマイナスとCマイナスでは互いに反発し合うのです。しかしそこにパラジウムという化学物質を媒介することによってそれらを結合させることができるそのことを発見したというのです。
この事から思いますのは、私たちと神さまとの関係についてであります。私たちと神さまとの関係は人の罪のゆえに反発し、結ばれることができなかったのであります。けれども神さまがお遣わしになった御独り子イエス・キリストによって、私たちは神と結びつけられるのです。
さらにこの和解の奥義について述べるなら、神の独り子イエス・キリストは人間の姿となり、その苦しみや悩み、貧しさ、悲しみや不安、そして死をも担われることによって、罪の贖いと救いを成し遂げてくださったのです。先ほどのパラジウムの媒介ではありませんが、まさにそのようにしてキリストは、神と人を結びつける仲介者となられたのです。
ここにキリストをまだ受け入れていらっしゃらない方がいらっしゃったら、ぜひこのイエス・キリストによる神さまの和解の福音を、今この時、受け取って戴きたいと思います。又、すでにクリスチャンであられる方は、いま一度14節にあるように、み神の「言が肉となって、わたしたちの間に宿られたこと。また、それは父なる神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちている」。そのことを深く心に刻んで歩んでまいりましょう。
本日は「愛のかたち」という宣教題が与えられました。
クリスマスという救い主の誕生を記念するこのとき、神さまがなされた愛のかたちについて、ヨハネ3章16節にこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
それは神さまからの素晴らしいプレゼントです。それも独り子をお与えになるというとてつもなく大きな犠牲、深い愛によるプレゼントであります。
フィリピ2章6節以降にはこう述べられています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
神の言なる主の愛はまさに人の思いを遥かに超えた「かたち」をとって世に現わされました。神と独り子なるキリストが私たちに対してなしてくださったこの「愛のかたち」をもう一度心に留め、クリスマスの恵みに感謝いたしましょう。
この愛によって今生かされている私ども一人ひとりもまた、神と人とを結びつけることのできる唯一のお方「イエス・キリスト」をヨハネのように証しし続けていきましょう。メリークリスマス。救い主イエスさまのお誕生を心からお祝いしましょう。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。