真の希望
エレミヤ書32章6節~15節より
エレミヤが「銀17シュケルの大金を支払って、畑を買い取り、購入証書を作成し、証人を立て、獄舎にいたユダの人々全員にも見せた」とあります。その行為は15節にありますように、災いの後、主が奪われた土地をすべて返して今一度ユダの地で再び、「家、畑、ぶどう園を買い取る時が来る」という希望を象徴的に示したものでした。エレミヤを通して示されたこの希望は、災難や審判から回避するというところにあるのではなく、避けることのできない審判や災いの中にあって、なお保たれ、残されているところの希望であります。それは、人間の側からではなく神の側から来る希望であります。
この希望は、順風満帆なとき、人生がうまくいっているときにはなかなか見ることのできないものであります。ある意味、人生の分岐点とも言えるとき、大きな病気にかかったとき、仕事や事業の失敗をしたとき、そして何よりも自分が死すべき存在であり、自分が滅び行く者であるということを思い知らされたときに、人は初めて、真の希望を欲するのであります。
エレミヤという人物がどのような状況にあっても、主のみ言葉に聞き、従って生きた人であったので。それは戦火の中、投獄の中、先行き見えない死さえ迫るような非日常的な状況の中におかれていたにも拘わらず(もちろん彼も人ですからさまざまな葛藤や不安もあったのでしょうが)、しかしそういう中でエレミヤは、真に主のみ声に聞き、従っていったのであります。非日常的状況にあって、エレミヤがまるで日常の出来事のようにアナトトの地を買い取り、普段どおりきちんと書類を作った。これはすごいことです。宗教改革者のルターは、「たとえ明日世の終わりが来るとしても、わたしは一本のりんごの木を植え続ける」といったそうですが。そこには、主こそすべてを支配しておられるという信仰、主がすべてのことを導かれるという希望があるからこそ、なし得ることができるのでありましょう。
エレミヤが「銀17シュケルの大金を支払って、畑を買い取り、購入証書を作成し、証人を立て、獄舎にいたユダの人々全員にも見せた」とあります。その行為は15節にありますように、災いの後、主が奪われた土地をすべて返して今一度ユダの地で再び、「家、畑、ぶどう園を買い取る時が来る」という希望を象徴的に示したものでした。エレミヤを通して示されたこの希望は、災難や審判から回避するというところにあるのではなく、避けることのできない審判や災いの中にあって、なお保たれ、残されているところの希望であります。それは、人間の側からではなく神の側から来る希望であります。
この希望は、順風満帆なとき、人生がうまくいっているときにはなかなか見ることのできないものであります。ある意味、人生の分岐点とも言えるとき、大きな病気にかかったとき、仕事や事業の失敗をしたとき、そして何よりも自分が死すべき存在であり、自分が滅び行く者であるということを思い知らされたときに、人は初めて、真の希望を欲するのであります。
エレミヤという人物がどのような状況にあっても、主のみ言葉に聞き、従って生きた人であったので。それは戦火の中、投獄の中、先行き見えない死さえ迫るような非日常的な状況の中におかれていたにも拘わらず(もちろん彼も人ですからさまざまな葛藤や不安もあったのでしょうが)、しかしそういう中でエレミヤは、真に主のみ声に聞き、従っていったのであります。非日常的状況にあって、エレミヤがまるで日常の出来事のようにアナトトの地を買い取り、普段どおりきちんと書類を作った。これはすごいことです。宗教改革者のルターは、「たとえ明日世の終わりが来るとしても、わたしは一本のりんごの木を植え続ける」といったそうですが。そこには、主こそすべてを支配しておられるという信仰、主がすべてのことを導かれるという希望があるからこそ、なし得ることができるのでありましょう。
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