世の光、主イエス

シモン

礼拝宣教 ヨハネ8章12-20節 


本日は、ヨハネによる福音書8章12~20節より、「世の光、主イエス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所は、直接的には7章の終わりから続いています。それは仮庵の祭の時のことでした。仮庵というのは言わば木材や布で作るテントのようなもので、このお祭りの時にはその仮小屋を建て、そこで寝泊りをして先祖たちがエジプトを脱出して、そのように仮庵を行く先々に建てながら荒野を40年間旅したことを思い起こすのです。又、イエスさまの時代には、仮庵祭の期間中には、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に水が注がれる行事が行われました。これは、出エジプトの時に、イスラエルの民が「こんな水がないようなところにどうして自分たちを連れて来たのか、エジプトにいた方がましだったのに」と指導者モーセに不平不満をぶつけたとき、モーセが主の言われたように、杖で岩を打つと水が湧き溢れて、イスラエル民の渇きを潤してくださった。このことを記念としておぼえるための儀式であったのです。先週はそのお祭りが最も盛大に祝われるクライマックスともいえる水が注がれるとき、高揚し酔いしれていたユダヤの人々にイエスさまが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」と大声でおっしゃった。そのところから、「救いの泉、主イエス」と題し、御言葉を聞きました。
本日の箇所では、水ではなく光の話であります。この仮庵祭ではエルサレム神殿の中庭の婦人の庭と呼ばれるところで、4本のたいまつに火が焚かれ、祭りの期間中ずっとたいまつに火が灯し続けられたのです。これは出エジプト13:21~22に「主は彼らに先立って歩み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」と記されていますが。そのように出エジプトの時、荒野において毎晩、イスラエルの民を「火の柱」をもって導いて下さった神さまの恵みを決して忘れないようにするために、仮庵の祭りの最中は4本のたいまつに火を灯し続けたのです。今でもユダヤの人々はその祭りを大切に受け継いで行っていますが。                                      
さて、本日の箇所はその仮庵祭が行われていたおそらく最後の日の夕刻であったと言われていますが。そこでイエスさまは「再び言われた。」というのは、先週の7章の「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と、大声で言われたことに続いて「再び言われた」ということであります。始めの出来事の後、「この人は一体だれなのか」「預言者なのか」「ひょっとしてこの人こそメシアなのか」といった論議が起りました。さらに群衆の間に対立まで生じたというのです。そうした中、祭司長やファリサイ派といったいわばユダヤの指導者たちがイエスさまの言動に反発していたときには、すでに何とかしてイエスさまを捕らえようとしていました。                                        ところが、イエスを捕えるために派遣されていた役人たちは空手で祭司長たちやファリサイ派の人たちのもとに帰ってくるのです。         「なぜイエスを捕えて来なかったのか」と責められた役人たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えます。ファリサイ派の人たちは腹を立て、「お前たちまでも惑わされたのか」となじり、さらに「議員や我々ファリサイ派の者の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。律法を知らない群衆は、呪われている」とエリート意識をむき出しにして群衆を断罪します。イエスさまの話を聞き、行いを見た群衆の中には、「この方こそ約束されたメシア、救い主だと信じ、受け入れようとしていた人もいたかも知れません。世の力、肉の働きと申しますか。彼らはその人たちに対して、「律法を知らない群衆は呪われている」と裁いたのです。                              

そこに一人のユダヤの議員がいました。彼はずっと事の成り行きを見つめていたのです。彼の名はニコデモと言った。以前、ひそかに闇夜、イエスさまを訪ねて来たファリサイ派に属していた長老です。彼は「律法を知らない群衆は呪われている」と断罪して裁いた仲間に対して言います。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決をくだしてはならないことになっている。」つまり、あなたがたこそ律法を知るべきだ、と進言したのです。かつては暗い闇夜に人目を避けるようにイエスさまを訪ねたその彼が、真理の光に照らされたかのように、仲間うちからどう見られようも間違っていることは間違っている、と伝えたのです。それはイエスさまのうちに、世にはない威厳と真理を強く感じていたからでしょう。               
このニコデモと最初に対面されたとき、イエスさまはこのようにおっしゃいました。週報の表に記しましたのでご覧ください。ヨハネ3章17-21節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」                                     ここでは裁きと光について主は語られています。実は今日のところは、そのニコデモとのやりとりが伏線としてあって、それが実際に公の出来事となって起こっているのです。今日のところでイエスさまは再び言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
その祭りの場所で、イエスさまは「わたしは世の光である」と宣言されました。ここでも「エゴ、エイミ」と「わたしがそれである」、「わたしが世の光である」と語られたのです。                                  
光といえば、冬から春に向かうまあこの時期は、一日一日夜明けの時刻が早くなってきましたが。年齢を重ねてまいりますと早起きをされる方も多くなるとよく言われますが。自然の中でも、又この都会でもそうですが。それまで真っ暗だったその所が、いつの間にか明るくなってきて、やがて陽が臨み、光が射し込んでまいります。ああ、闇が明けた、と何だかホッとするような思いがします。
ところで、かつてイスラエルの民が何にもない荒野を仮庵生活しながら旅したとき、どんなに心細く不安であったかと想像しますが。そのような中、神が夜は火の柱をもって民のその行くべき道を照らして導かれたことはどんなに心強く、又安心そのものであっただろと思います。
暗闇の中にいますと人は不安になり、怖れを持ちます。そこで電灯やあかりをつけては周囲を照らして不安や怖れを一時的にしのいでいこうといたします。

けれども人生には電灯や人工の明かりではしのぐことができない「闇」があります。その最大の闇。それは「死」でありしょう。それも、ここの8章24節にありますように「自分の罪のうち死ぬ」ということほどの「闇」は他にありません。それは裁きであり、絶望であり、何よりも創造主であられる父の神との関係の断絶です。その状態を聖書は罪というのです。この解決のために神は独り子イエスさまを救い主、まさに世の光、命の光として、世にお遣わしくださったのです。
イエスさまがおっしゃるように、人は肉の思いに従って裁きます。しかし主の裁きは真実で、闇を光が照らし出すように、神の真理のもと、すべての隠れた悪や偽りといったものがみな暴かれ、明らかにされるのであります。それはまた主に信頼し従ってきた者のあゆみもすべて明らかにされる。つまり希望となるのです。単なる一時的な光とすべてを照らし出す真理の光の違いはここにあります。

さて、イエスさまのお言葉を聞いたファリサイ派の人々は、「わたしが世の光である」という主イエスの言葉を信じませんでした。
なぜ信じないのかというと、「イエスが自分について証しをしているからだ」と彼らは言っています。自分がそう言っているだけで信用できない、例えば、特別な誰かがそのことを証言してくれるのでなければ、その言葉には信憑性がない、というのです。
民衆はイエスさまの言葉と行いと業を見て、この人は預言者だ、メシアダと素朴に思っていたのですが。我らこそ神の民と自負する祭司長やファリサイ派の人たちは民衆を見下していました。彼らにとってイエスさまはこれまた民衆を惑わすやからとしか映っていなかったのでしょう。まあすのように、「イエスが神によって来られたことの証人がいない」「証明がない」という彼らに対して、イエスさまは、「父なる神が共におられる。そのことが証明だ」とおっしゃるのです。
 
イエスさまはご自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのかを知っておられました。イエスさまは、ご自分が神の独り子であり、父なる神によって遣わされたものであることを知っておられました。それは神との関係が断絶された人の世の闇の中で、滅ぶほかない人間を救うためです。
イエスさまは父の神のこの御心を成し遂げるために来られ、従い通されたのです。そのようにイエスさまが世の光であることは、イエスさまがお一人で言っていることではありません。イエスさまをお遣わしになった父の神がそのことを証ししておられる。その父なる神とイエスさまのみ業が十字架で成し遂げられ実現されたことを私たちは知っています。
ここでは、ファリサイ派の人々はイエスを頑なに拒絶し続けます。それはあたかも彼らが「律法を知らない群衆は、呪われている」と、断罪したのと同じように自分たちのおごりと、イエスさまに対する偏見が根強くあったからです。

イエスさまは15節でこう言われました。
「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」このイエスさまのお言葉は7章全体を貫くものとしてとっても重要です。      
先にお話したニコデモとの会話のところでも、3章17節に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く(断罪する)ためでなく、御子によって世が救われるためである」と、はっきりおっしゃっています。御子イエスによって世、すべての罪ある人が救われるということこそ父の神の御心であるのです。

イエスさまは頑ななファリサイ派の人々に対して、「あなたたちはわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」とお答えになりました。
12章44節以降には、「イエスの言葉による裁き」という小見出しがつけられていますが、とっても大事なところなのでそこを皆さんと読んでみたいと思います。こちらも週報の表に載せていますのでご覧ください。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見るものは、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く、なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
「世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」

この時の祭司長やファリサイ派の人たちの自分でも気づかなかった闇。滅び。それは律法と裁きで人も自分もがんじがらめにして、神さまとの関係を自ら断ち切ってしまっているということです。しかし、これは他人事ではありません。人誰しも、この底なしの暗闇に堕ちていく危うさをもっています。
イエスさまは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
父の神ともにあって来られた「世の光、主イエス」の救いと、裁きからの解放に与って、日々主イエスに聞き従っていく。そのような光の中を歩む毎日を送り、来るべき永遠の朝を迎えたいですね。
日々の生活の様々な場にあって、又いろんな問題に出逢った時にも、「じゃあイエスさまだったら、なんとおっしゃるだろう。こんな時、どのようになさるのか」ということを心に思い起こして、自分の腹にではなく主イエスに従っていく、私たちでありたいと、切に願うものです。祈りましょう。