朽ちない種による新生

シモン
礼拝宣教 ペトロ一1章13-25節

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。
先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。
昨年の9月以降3名の方々が主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

昨年も申し上げましたが、本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会員でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。

昨年10月に丘の家が改装され大阪教会の記念室、通称「希望の家」が完成いたしました。それはYさんが天に召されるその日、きれいに改装され覆いが取り除かれたその「希望の家」を、いそいでスマホの写真とビデオに収めてYさんの病床で、「今日記念室ができましたよ」と、お見せして主にお祈りをしたその後、安らかなお顔で天国に帰っていかれたのです。

さて、本日は召天者記念礼拝ですので、従来の列王記下から一旦離れて、ペトロ一1章から「朽ちない種による新生」と題し、聖書のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
まず、わたしがこの箇所を選ばせて頂きましたのは、ここには主イエス・キリストの十字架による救いと復活の希望がはっきりと語られているからです。またここには、福音の知らせによって「新たに生まれた者」、クリスチャンの新しい生き方が語られており、故人を偲びつつ私共もまた、その歩みを確かにされるべく招かれていることをここから聞いていきたいと、願っております。

今日の礼拝の冒頭で読まれた招きの言葉は、ペトロ一1章3節~4節でした。
「主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。礼拝がまさにそうですが、クリスチャンの生活はまず神への賛美からすべてがはじまります。人はみな創造主、すべての造り主であり、命の基である神を知り、ほめたたえるために造られ、生かされています。
しかし、そうは言っても神への賛美は、私たち人間の内側からなかなか出来るものではありません。かえって不平や不満が口をついて出てきてします。それが罪のため神を見失った私たち人間でありましょう。それでは如何にして私たちは人間本来の神をほめたたえる存在へ立ち返ることができるのでしょう。
それは3節後半から4節にございますような、神の愛と救い、そして計り知れない恵みを得ることによってであります。「神の豊かな憐れみにより」。この憐れみという言葉は元のギリシャ語では最も大きな憐れみと、最上級のことばが用いられています。そのような神の最上級の憐れみによって、「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え下さった」。もっとわかりやすく言いますなら、イエス・キリストの死者たちのうちからのよみがえりを通して、私たちを生ける希望へと移してくださった、その恵みであります。そしてそれは又、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださるためであるという恵みであります。さらには5節にあるとおり、新しい人として生かされている今、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力、すなわち聖霊と信仰によって守られている、そのようなくすしき恵みと希望のゆえに、神への感謝と喜びが満ち溢れ、神をほめたたえずにいられないのであります。
神をほめたたえる賛美の歌は、まさにそのような神の御救いによるものです。その喜びは、地上における試練の日々に練りきよめられ、キリストが再び現れる来臨の時には、称讃と栄光とほまれをもたらす、という希望のゆえにクリスチャンは言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれるのですね。それは9節にありますように、信仰の実りとしての魂の救いを受けているからであります。
さて、本日の13節で、ペトロは「だから」と言葉を続けて、神への賛美から、次は神の恵みへの応答を説きます。それはまず神を賛美する者とされたことによって、勧めのことばに聞く者とされるのです。この順序が大事です。まずのです。この順序は逆ではありません。まず心に溢れる喜びと希望があって、勧めの言葉に従い得るのです。

その勧めの第一は、13節「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、ひたすら待ち望みなさい」ということです。それは、すべての希望をそこにおきなさいという勧めであります。
 ここの「心を引き締め」とは、括るという意味で、ある事柄に備えて、着物の帯をしっかりと締め直すことを表します。日本では「かぶとの緒」を締めるとか、「ふんどし」を締めてかかるとか、受験生など「はちまき」を締め直すなどといいますよね。そのように、やがて訪れるキリストの再臨、神の国の到来に備え、霊的に目をさましておくように、という勧めです。
私たちの信仰の先達もそれぞれにその神の約束を信じ、来たるべき時に備えて、あたかも着物の帯をしっかり括り直すように祈り、御言葉に聞き備えていかれた事でしょう。
私はそのように闘病生活が続く中で、それでもイエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、切望しつつ天に召された信仰の先達のお姿を今でも思い起こすことができます。

勧めの第二は、17節「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」ということです。

クリスチャンはこの地上での営みは仮住まいであり、永住すべき故郷があることを知っています。神を知らず生きる人は、この地上がすべてで、そこに安住することに執着します。人はあらゆるものをそろえ、倉に納め、保証を得ようとしますが。問題はそれらのものによって本当に平安を得ることができず、社会の状況や取り巻く環境、不測の
事態にそれらを失う不安や心配ばかりが膨らんでいくとしたら、それはどんなに残念な人生であるでしょう。私たちの人生はほんの先のことでさえ何が起こるかわかりません。ましてやいつその終わりの日が訪れるのかもわかりません。すべては天地万物をお造りになり、治めたもう神の御手のうちにそのご計画によって時が定められています。命の源である神の存在を知っているか、知らないかでは天と地の違いがあります。
すべてをご存じで、正しくお裁きになられる方がおられることを知るのはある意味厳しいことかもしれません。しかしその神の義と共に神の最上級の憐れみ、すなわちイエス・キリストにある赦しと救い、復活と希望を見いだすとき、この地上はもはや仮住まいであり、神を畏れて生活することが如何に「平安と安らぎ」をもたらすものであるかを自ら体験する者となるのであります。神を畏れて生きる。そこに人間にとって幸いな最高の道がございます。

勧めの第三は、22節「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」ということです。
新改訳聖書でそこを読みますと、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と訳されています。「真理を受け入れて、魂を清め云々」という新共同訳ですが。原語は「真理への従順」ですから、新改訳の「真理に従うことによって、たましいを清め云々」の方がしっくりとくるように思います。真理であるキリストに従うことによって魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった、それがクリスチャンですけれども、しかし現実に、私たちはそのように「偽りのない兄弟愛を不断に抱く者となるのはそうそう簡単なことではありません。
また、「清い心で深く愛し合いなさい」というのは、もともとは「清い心を尽くし、全力で愛し合いなさい」という原意なのです。そう考えますと、この勧めに重荷さえ感じてしまうと思われる方もおられるでしょう。誰も気の合わないような人、自分にとって不快な思いを与えられた相手とはあまり関わりたくないと思うものです。
ただここで、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧められるこの「愛」はアガペー、神の愛なのですね。「神の愛によって愛する」という意味なのですね。まさに神を認めず敵対し、裁かれ滅びる以外になかった罪人の私たち人間のために十字架の苦難と死を通して、滅びから贖い救いとってくださった神の愛なのです。その神の愛によって「深く愛し合いなさい」と勧めているのですね。
先週の水曜日の朝の祈祷会のときに、研修神学生が「どうしても祈れない人がいるときには、その相手が喜んでいる笑顔を思い浮かべて祈ってみられるといいかも知れません」とお勧めくださったのですが。それはとてもよい方法だと思います。相手が喜ぶ顔を思い浮かべる。それはその人が神の祝福に生きる姿であり、そこから神の愛における赦しや和らぎが祈るその人の心にまず起こされてくるでしょう。何よりも聖書はそのように深く愛し合うことの根拠を、救いの福音によって新しくされたその恵みにおいています。

23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。

こうして新たに生まれ者に、神さまはアガペーの愛をもって深く全力で愛し合うことを期待しておられるということです。
ここの「朽ちる種」とは、一時地上に花を咲かせても虚しく散っていく人生です。それはどんなに美しさを誇ったとしても、やがては枯れて、散っていく虚しい人生です。

ペトロは神の言葉の永遠性について、イザヤ40章6-8節を引用しながら、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と言いました。

この手紙を受け取ったのは、小アジアの各地に離散して仮住まいをしていたクリスチャンたちでした。彼らはそれぞれローマ帝国の迫害と苦難に遭っていたのですが、その同心の友らに対してペトロは、預言者イザヤの言葉をして、「厳しい迫害はいつまでも続くものではなく、一時的なものである」と知らせたのです。そして、神の言葉が永遠に変わることがないように、神に希望をおいて信じ続ける人たちの救いとそれに伴う栄光は、とこしえに変わることがない、と伝えたのです。

今日の宣教題を「朽ちない種による新生」といたしました。朽ちない種とは、神の変わることのない生きたみ言葉、いのちの言葉のことです。朽ちない神の言葉、主イエス・キリストの救いと希望によって私たちは生かされています。私たちの本国は天にございます。仮住まいであるこの地上における限られたときを、「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めを受け入れ、さらなる福音の恵みの種まきを内に外になし、育んでまいりましょう。

信仰の先達のお一人おひとりを偲びつつ、私たちも心引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをアガペーの愛のうちに、ひたすら待ち望んでいきたいと思います。
祈ります。