神を受け入れる心

シモン
礼拝宣教 エレミヤ13章1~17節 

先週は月曜日関西地方教会連合の信徒大会が神戸教会で行われ、大阪教会から6名が参加し、たいへん恵まれました。「それぞれのミッション」と題して、白浜バプテスト基督教会牧師の藤藪庸一先生からその活動の一つである白浜レスキューネットワークの自死防止の対策や救出後のエピソードなどを伺いました。その主イエスの御言葉を軸にした現場からの生きた証しは、実に力強く心迫るものがあり、午後からは参加された方々それぞれに、神さまが自分に託されたミッションについて考え、語り祈り合う時となりました。私も連合の会長という役目を仰せつかっておりますので、信徒大会がこうして恵み豊かな時として守り導かれ、無事に終えることができ、ホッとしていますが。同時に一参加者として大阪教会に与えられているミッション、使命がいよいよ実現されていきますようにと願わされました。

さて、本日はエレミヤ書13章から、御言葉を聞いていきます。
ここには2つのたとえ話が出てきます。一つは「麻の帯」のたとえ話であります。
エレミヤは「麻の帯を買い、それを腰に締めよ」と神に命じられ、お言葉どおりそれを買い求め腰に締めます。すると、再び神はエレミヤに「あなたが買って腰に締めた帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」とお命じになり、エレミヤはその通りに行います。それから多くの年月がたった後、主はエレミヤに「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい」とお命になったので、エレミヤがそれを岩の間から取り出すと、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた、というお話であります。

10節以降に神さまはこのようにお語りになっています。
「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。」
そうして「彼らは全く役に立たないこの帯のようだ」と嘆かれるのです。
11節には、「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかり着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」とございます。

このたとえの帯は、神さまがご自分の宝の民としようと選び、立てた北イスラエルや南ユダの契約の民のことを表していました。出エジプト記で読みましたように、神さまは奴隷のような状態から救い出された彼らにこのようにおっしゃっています。
出エジプト19章5節。「今、もしわたしの言葉に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。」それに対して彼らは「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と答え、神さまはモーセを通して神の戒めを石板に彫った十戒の契約をお授けになるのです。
ところが、民はその罪のゆえ北と南に別れ、北イスラエルの人々はその神の言葉に聞き従わずすでに崩壊していました。そして南ユダにおいても、エレミヤが懸命に「御言葉に聞け、主に立ち帰らなければ滅ぶ」と、主の言葉を語り、訴え続けるのでありますが。ユダのエルサレムの人々は神の前に傲慢な者となり、一向にその主の言葉に耳を傾けることはありません。それどころか、心頑なにして神ならざるものを頼みとし崇める偶像崇拝の罪を犯し続けます。主はせっかく、北イスラエルと南ユダのすべての家をご自身の帯のようにしっかりと結びつけて、彼らを御自身の名声、栄誉、威光を示す者にしようと願っておられたのに、彼らは甚だ神さまに相応しくない腐った帯のようなものとなってしまった。契約の帯は腐ってもはや役に立たないものとなってしまったというのですね。
このたとえの中に、期待を裏切られた神さまの深い憂いが表現されています。
7節に「ユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなかった」とありますが。このユーフラテスというのはバビロニアにあり、後に南ユダはその侵略を受けて崩壊し、捕囚となったことから、エレミヤを通してなされる警告にも彼らは立ち返ることなく、やがてそのような厳粛なさばきの時が大国バビロニアを通してもたらされることになるとの預言がそこに表されていたのでしょう。
ユダとエルサレムの人々が主の言葉に聞き従うことを拒み、一向に悔改めようとしないその傲慢が、やがてそのような崩壊を招くことになるというメッセージがそこにあります。
 私たちもこれはほんとうに心して聞くべき教訓であるでしょう。信仰者にとって最も恐るべきことは、よく「傲慢な心」だといわれます。すべての罪は神さまの救いの恵みを忘れた傲慢から起こります。主イエスによって神の子、宝の民とされた私たちクリスチャンもまた、今やその救いの新しい契約の帯として、主の栄光を表すものとなることが期待されています。腐った帯とならないように、日々聖書の言葉に聞き、謙遜に祈り務め、主の救いの恵みを表す者でありたいと願います。

この麻の帯のたとえ話のメッセージは、今やユダヤから全世界の人々にも届けられ、私たち一人ひとりに主が語りかけられておられものであります。それは11節にありますとおり「人が帯を腰にしっかり着けるように」、主御自身が今や、イエス・キリストの御業を通して私たちをその主イエスにしっかり結び着けてくださり、宝の民としてくださるのであります。エレミヤを通して、主は私たちに、すべての人々に、この大きな恵みの「神を受け入れて生きよ」と、招いておられるのであります。
今日のもう一つのお話は、「ぶどう酒のかめ」のたとえ話です。
神さまはエレミヤに、彼らに対して「かめにぶどう酒を満たすべきだ」と言いなさい。ユダの人々は「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでもいうのか」と言うであろう。あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。わたしは人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、惜しまず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と、真に厳しい裁きが宣告されます。

この「かめにぶどう酒を満たすべきだ」というのは当時民衆の間で、「いくらでもぶどう酒は入る」という酔いどれたちから出た一種の格言になっていたようです。
そういった人たちは結局酒に呑まれ自分を失って醜態をさらす、失態を犯してしまうということで、ユダの人たちもそのように、「自分のことは自分が分かっている」「自分のことを知っていないとでもいうのか」と、まるで酔いどれのように自分がどれほど危機的状態なのか分かっていない、知ろうとしないで自ら滅んでいこうとしている、そのことへのそれは警告なんですね。
15-16節には「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ 闇が襲わぬうちに 足が夕闇の山でつまずかぬうちに。」   
一つは「高ぶらず謙虚になる。」そして二つ目は「暗闇が襲わぬうちに、主に栄光を帰せよ。」そうすることで、あなたたちは泥酔状態から主の前に正気に立ち返って救いを得ることができる、とエレミヤは言っているのですね。

朝の祈祷会の聖書の学びの時に、ある方が「神さまは人間がその愚かさで滅ぶことをご存じであられたのですね」と、おっしゃいましたが。そうですね、エレミヤはここで、17節「あなたたちが聞かなければ わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕えられて行くからだ」と嘆いています。それでも悔改めることがなかった。
ユダとエルサレムの人々は遂にその酔いからさめないままに、その後バビロニアの侵攻によって壊滅的に滅ぼされていく結末へ至るわけですね。
まあ、ここを読みますと確かにユダの人たちはその罪のためにもはや神の宝の民としての歩みは断たれてしまったかのように思えます。
しかし、エレミヤ1章に「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」とありましたように、神さまは彼らをただ罰して滅ぶに任されたのではなく、彼らの信仰が再び建てなおされ、堅固なものとしてその地に植えられることを強く願っておられたのですね。
バビロニア捕囚を経験したユダの人たちの群れは、その真に痛い経験を通して主に立ち返り、エルサレム神殿の再建、信仰の復興を遂げていくのですね。エレミヤは23章又は33章で同じようにこう告げています。33章5節。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来ると主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日にはユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は『主は我らの救い』と呼ばれる。」
そうして実に紀元前1世紀、イザヤやエレミヤが預言したこの救い主、キリストはこの地上にお生まれになり、神の救いのご計画は主イエスのご生涯とその十字架の苦難と死、復活を通して実現され、聖霊のお働きによって全世界に告げ知らされていくのであります。
神さまはすべての人々が、滅びゆく道ではなく、主イエスを受け入れて神さまと和解し、新しい契約を結んで、永遠の命に与ることを願っておられます。また、救いに与った私どもが道を逸れることなく主の前に歩み通して生きることを切望しておられます。ヨハネ3章16節に「神はその独り子を愛するほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びず、永遠の命を得るためである」と記されているとおりです。

最後に、週報にも報告させてもらいましたが、14日(水)午後、Y兄が主イエスをご自分の救い主として信じ受け入れ、信仰の告白をされて、病床の洗礼が行われました。この信仰告白に至るまで、4年前安藤先生の特伝に初めて大阪教会に来られた時から、礼拝と祈祷会は毎週出席しておられましたが。本当に長く4年近い求道生活が続きました。時に、何て理屈が多い方なのかなあ、本当に頑固な方だと思わされることも正直ありましたが。彼は教会の方々との関わりの中に「何かある」と求道を続けておられたのです。すでに大病をしておられました。体調を崩されることが多く、何度も入院なさって、闘病生活が続いておられましたが。ここ数カ月はいよいよ教会に来ることも困難になり、いつもお世話しておられるIさんが家庭集会を持って下って、祈祷会のメンバーと顔を合わせ、Yさんは大変うれしそうにしておられました。
しかし、いよいよ先週の日曜の夜から体調を崩され、月曜日の信徒大会に向かう車の中でも、体調の心配と同時に、「ああYさんの口を通して信仰告白が聞けたらよいのに」という話になりました。そうして信徒大会が無事終わって帰宅する道すがら、ご連絡を受け、今後のことについて、御家族とお話することになり、ご自宅に伺いました。彼はその時すでに病院に緊急入院されて大きな輸血をされており、予断できない状態であるということを知らされました。その夜から重篤の状態になられ、医師は明くる火曜日から水曜日にかけてが山だといわれていました。そして火曜日の夕方私がIさんと病室をお訪ねすると、何とご本人は意識が戻られだいぶ落ち着かれた状態でした。驚いたことに私どもが伺う前にアイスクリームを食べ終えていたところでした。夕食には蜜豆の缶詰半分を私の目の前で美味しそうに食べられたのです。その夜の8時過ぎにご本人と信仰についてお話をし、確認する機会が与えられたのです。これも実は前日にYさんのご長男とお話できた時に、お父様が最期を迎えられた場合の事について、「大阪教会でキリスト教の葬儀を行うように遺言を残しておられること」をお伝えしました。実はYさんは仏教の家で信徒総代を長く担っておられたということもあってバプテスマを躊躇なさっていたんですね。それで私はご長男に「お父さまがクリスチャンになることに対して仏教の信徒総代ということがあり難しいんでしょうね」とお尋ねすると。「いいえ、信徒総代は長男である私が引き継ぎました。父がクリスチャンになることに問題はないです。教会で葬儀を行うならクリスチャンとなって迎えられる方がよいでしょう」と、そう私におっしゃられたのです。ああ、これは神さまのお導きであると確信した私は、その火曜日の午後8時15分頃でしたか、「Yさん一つ確認がしたいことがあります」と切りだしました。「これまでYさんは主イエスさまを信じますということは言っておられませんが、今そのことをもう一度伺ってもいいですか。Yさん、あなたは主イエスさまを信じますか」とお尋ねしました。するとYさんは「はい、信じることにいたしました」と何とも彼らしい言い方ではっきりとお答えになられたのです。この時、私のうちにずっとひっかかっていたものがとれたという実感とこの上ない喜びが湧いてきました。医師から山だと言われていたその夜も無事に守られ、明くる水曜日の午後、祈祷会のメンバー7人とご長男さん同席のもと、信仰告白と病床洗礼が神さまの恵みのうちに行われました。前日いまわの息であった人にその日みんなで「おめでとう」と言っているなんて本当に不思議ですよね。神さまはYさんのこれまでをずっと見守り、支え、導いてくださっていたのです。あれだけ頑固で理屈ぽい方が、本当に素直に子どものように「イエスさまを信じます」と、とってもいいお顔で主の御救に与った。神さまはほんとうに生きておられるんですね。お体の方はかなり厳しい状態であるのですが、Yさんのご意向でご自宅に帰ってこられました。いつ何が起こってもおかしくない体の状態であり、私も携帯電話が手放せません。けれど、今、そんな周りの心配をよそにご本人はお元気で、昨日お宅を訪問しますと、ヘルパーさんと歩く練習をしてご自分でトイレに行かれたとお聞きしました。Yさんの朗らかで素敵な笑顔を見せて頂き、本当に「主は人を新たに生かすお方だ」と改めて思わされ、主にただ感謝であります。主は今日も生きて働いておられます。私どももその恵みに相応しく、真新しい麻布の帯のように、腐らせない信仰を保つ者。又、ぶどう酒に酔って溺れ、高ぶることなく、主イエスにあって神に栄光を帰する者として歩んでまいりましょう。生ける主にあって生かされている日々に感謝しつつ。

詩編50編14-15節のお言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「告白を神へのいけにえとしささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。
 苦難の日、わたしはお前を救おう。
 そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」