イエス・キリストの証人
宣教 ヨハネ1章19-34節 待降節Ⅲ
先週はチャペルコンサートが盛会のうちに行われ、ほんとうに感謝でした。プログラムもハンドベルだけでなく、コールシュパースの透きとるようなコーラス、また栗谷さんとカンちゃんの絶妙な腹話術と盛りだくさんの内容で、集われた方々それぞれに「よかった」と反応も上々であったようです。新来者はじめチラシを通してここにキリストの教会があることを知った方々が福音とお出会いになりますよう、どうか引き続きお祈り下さい。
また、昨日はY兄の召天50日記念会が行われました。地上での歩みを終えようとされたまさにその時、この記念室の改装中の覆いが取り除かれ、それを写真とビデオにとってお見せして、まもなく兄弟は天に召されたわけですが。昨日もそこにご親族と有志の教会員の和やかな見守りの中で守られ感謝でした。
本日はヨハネ福音書1章19‐34節から御言葉を聞いていきたいと思います。
今日の箇所は、「バプテスマのヨハネの証し」について記述されています。
ヨハネは自分のもとに調査に来たユダヤ教のファリサイ派の祭司やレビ人たちに「わたしは荒野で叫ぶ声である」とそう証言しました。
この頃、ヨハネはヨルダン川の東、ベタニヤでバプテスマを授けていましたが。まあ彼のその働きは、ユダヤ全土からぞくぞくと人々がやって来るほど劇的なものでした。その動きに対してユダヤの指導者たちは警戒し、その運動を調査するために、その道に詳しいファリサイ派の祭司やレビ人たちをヨハネのもとに送るのです。
このファリサイ派の人たちは当時民衆に対する影響力があり、特に彼らは「救世主」「メシヤ」について深い関心を持っていた点から、ヨハネを取り調べる者としてはうってつけであったようです。
当時のローマに抑圧されたユダヤ社会においては、あのダビデ王を彷彿とさせる政治的指導力を持ったメシヤが待望されていたのであります。そういう中、彼らももしかするとヨハネこそ待望の「メシヤではないか」とそう思っていたのかも知れません。
ヨハネは、その人々から「あなたは、どなたですか」と聞かれると、「わたしはメシヤではない」と言います。彼は隠さず公言して、まあきっぱりとそれを否定したのです。次に彼らが「では何ですか?あなたはエリヤですか」とそう聞きますと、これにも「違う」と言い、さらに「預言者なのですか」と聞かれると、「そうではない」と重ねて否定します。
そこでファリサイ派の使者たちは、ヨハネに「自分たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問いますと、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」、預言者イザヤの言葉を用いて答えたというのですね。つまり、自分は主の道をまっすぐにする使命をもつ者であり、「声」にすぎない、と言うのです。
多くの民衆から注目され、支持を受け、ぞくぞくと押し寄せる人々にバプテスマを授けていたヨハネでした。彼は自分を誇示すれば、名誉やステータスを得ることもできたし、まあ言って見ればヒーローになるチャンスが十分あったわけです。けれども、自分は人々の心を真のメシヤであるイエス・キリストに向けさせるための「声」に過ぎない、とヨハネは公言するのです。
それを聞いたファリサイ派の使者たちはこのヨハネの回答に到納得できず、「それではなぜ、バプテスマを授けるのですか」と尋ねます。それは、メシヤでも、預言者でも、指導的な立場でもないただの人が、人々にバプテスマを授けている事自体考えられないことであったからです。
ヨハネはその質問には直接答えずこう言います。「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
ヨハネは、自分とは比べようのないほど偉大な方が自分の後から来られ、自分はそのお方の前では主人の履物のひもを解く奴隷よりも低い者だ、と言うのです。
このようにヨハネの証言を辿っていきますと、彼は主イエスの道備えをなす「声」であるという自覚をもっており、その役割に徹して働きをなしていたということです。自分の後から来られるイエス・キリストこそ、彼の主、世界の主であり、世に顕わされるべきお方であったのです。
もしこのヨハネが世の人々を魅了する独特の力や賜物を、私欲のために用い誇示していたとしたなら、どうなっていたでしょう。ヨハネのカリスマや能力が称賛され、確かにユダヤ全土で大きな影響力をもって何がしかの革命的なことが起こったかも知れません。しかしそれでは真のメシヤ、イエス・キリストの道を備えることには決してならなかったでしょうし、神の救いのご計画が台無しになったのではないでしょうか。
ところで、私はおしるこやぜんざいが大好物なのですが。あれが美味しいのはその中にわずかな「塩」が入っているからですね。今日登場するヨハネは、ある意味独特な個性の持ち主であったとも言われていますが、彼はそんな「塩」のような存在のように私には思えるのです。その隠し味の塩というものが全面に出ると、せっかくのいぜんざいが台無しになるように、主イエスの証しをする者が、自分の存在感を全面に強く打ち出そうとしますと、肝心の神の栄光を表すことができなくなっていまうんですね。この事は私たちの実生活においてもややもすると起こり得ることであります。
たとえば、いくら聖書のことについて知っていたとしても、律法主義的になって人を裁き出すと、人を躓かせてしまいます。教会も人の能力主義で経営、通用するようになると聖霊の働きを妨げることが起こり得るのです。世の人がそんな教会の姿を見るなら、せっかくの主の救いの恵み、イエス・キリストのよい香りは人の高慢によって悪臭になっていきかねません。
マタイ11章11節で、イエスさまはこのヨハネについて次のように言っています。
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった」と。主の前に己を低く、謙虚に生きる者を主は高めてくださるのです。
さて、ヨハネが自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と証言した翌日のことです。ヨハネは自分の方へイエスさまが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。
罪を取り除く小羊、それは古来イスラエルにおいて人の罪の贖いのため代償としてほふられる犠牲の小羊のことです。そして、この神の小羊とはまさにイエスさまのことを表しているのです。この「世の罪を取り除く神の小羊」とは、旧約聖書の預言者イザヤ書53章の「苦難のしもべ」に重ねられているのですね。つまりイエス・キリストは全人類の罪を背負い贖う小羊として十字架上にほふられ、私たちの罪を取り除かれるお方であるのです。
神の御子、ヨハネが履き物のひもを解く値打ちさえ私にはないといったそのお方が、私たちの罪、私の罪の贖いのため十字架にほふられる神の小羊としてお出で下さった。これこそ謙遜の極みではないでしょうか。
ところで、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と2度も言っています。
彼はイエスさまの母マリアの親類のエリサベトの子であり、マリアはエリサベトの家を訪問したりしているわけですし、そう広くはないユダヤの町にあって2人は親類同士、幼少の時代より互いを知っていたと思います。それにも拘らず、ここでヨハネが知らなかったと言っているのは、その「イエスが世の罪を取り除く神の小羊である」ということについてであります。興味深いことに、ルカ福音書にはマリアの訪問に際して、エリサベトの胎内の子は躍った、エリサべトは聖霊に満たされて「わたすに主のお母様がわたしのところに来て下さるとはどういうわけでしょう」と感嘆の声をあげたとあります。
ヨハネはイエスさまについて知っていたのです。けれどもそれを実体として捉えたのは、まさしくヨハネがイエスさまにバプテスマを授けた際に、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って、イエスの上にとどまるのを見たその時であったのです。ヨハネはその聖霊のお働きを介して初めてイエスさまが「世の罪を取り除く神の小羊である」ことを知ったのであります。
私たちもそうではないでしょうか。聖書の言葉やキリスト教の教義を頭では知っていても、知識だけでは本当に知ったことにはならないのです。そこに聖霊の働きがあって、主イエスにある聖霊の交わりがあって、初めて聖書が「いのちの言葉」となり、「救い」となり、又「平安」をもたらすものとして見えてくるんですね。ですから、聖霊のバプテスマは水のバプテスマと違って1回受けて終わりということではなく、主イエスの御霊の交わりにあって日毎に受けるべきもの、それを頂き体験するものなんですね。私はよく、聖霊とはどのようなものですか?と質問を受けることがありますが。正直私もそれを形あるものとして目にしたことはございません。
ヨハネはここで、それを見たと言っていますけれども、それはそもそも生ける神さまご自身であられますから、人が肉眼で見えるものではないので、ヨハネでさえ「鳩のように」と非常に抽象的表現で言い表していますよね。それは肉の目ではなく霊の目でもって確認しなければ見えないものなのです。先程述べましたように、彼が主の前で自分の役割をわきまえており、主の御心こそが成るようにと終始謙虚であったので、彼は主の信任を得ていたということです。自分ではなく、主とその御救いを指し示す者に主はそのご計画を示し、実現に至らせるための霊の業をお見せ下さるのです。私たちも又、ヨハネのように、主の御業の実現を仰ぐべく、いつも謙遜な者でありたいと願います。
さて、ヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが」、イエス・キリストは「聖霊によってバプテスマを授ける人である」とこう主の言葉を聞き、それを見たというのです。ヨハネの水のバプテスマは、人々を罪の悔改めへと招き、救い主イエス・キリストの到来に際して人々を備えさせるためのものでありましたが。救い主イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマは、1章12節にあるように、「受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与える。」そのような神のダイナミックな力なのです。これはすごい恵みですよね。ヨハネ7章37-38節で、イエスさまは立ち上がり大声で聞く者にこのように呼びかけられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」この生きた水こそ聖霊の溢れる恵みであります。
その7章39節で、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」とあるとおりです。
冒頭にお話した昨日のY兄の召天50日記念会に兄弟の全般に亘るお世話をしてくださっていた方が、記念室での納骨を見て、「私もここに入りたいです」とポツリと話されたのです。まあ現役でお仕事もされておられるよし、この先はまだどうなるか分かりませんが。この方がそのようにおっしゃったのは、記念室の建物もさることながら、きっとこの教会において、またそこに集われる方々のうちに、主イエスにある喜びが満ち溢れ、誠意や愛が湧き出るのをお感じになられたのではないかと思いました。ア―メン。これこそ聖霊のお働きですよね。
イエス・キリストは聖霊を通して今日まで、全世界において信じる者のうちに豊かに臨み、活き活きと働いておられます。今日の御言葉からバプテスマのヨハネが「主の道をまっすぐに備えるための、わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と、どこまで救い主イエス・キリストの証人に徹し続けたように、私たちも神さまから頂いた恵みや賜物をもって自分自身ではなく、イエス・キリストを証しする者とされてまいりましょう。
「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」Ⅰヨハネ4章13-14節
先週はチャペルコンサートが盛会のうちに行われ、ほんとうに感謝でした。プログラムもハンドベルだけでなく、コールシュパースの透きとるようなコーラス、また栗谷さんとカンちゃんの絶妙な腹話術と盛りだくさんの内容で、集われた方々それぞれに「よかった」と反応も上々であったようです。新来者はじめチラシを通してここにキリストの教会があることを知った方々が福音とお出会いになりますよう、どうか引き続きお祈り下さい。
また、昨日はY兄の召天50日記念会が行われました。地上での歩みを終えようとされたまさにその時、この記念室の改装中の覆いが取り除かれ、それを写真とビデオにとってお見せして、まもなく兄弟は天に召されたわけですが。昨日もそこにご親族と有志の教会員の和やかな見守りの中で守られ感謝でした。
本日はヨハネ福音書1章19‐34節から御言葉を聞いていきたいと思います。
今日の箇所は、「バプテスマのヨハネの証し」について記述されています。
ヨハネは自分のもとに調査に来たユダヤ教のファリサイ派の祭司やレビ人たちに「わたしは荒野で叫ぶ声である」とそう証言しました。
この頃、ヨハネはヨルダン川の東、ベタニヤでバプテスマを授けていましたが。まあ彼のその働きは、ユダヤ全土からぞくぞくと人々がやって来るほど劇的なものでした。その動きに対してユダヤの指導者たちは警戒し、その運動を調査するために、その道に詳しいファリサイ派の祭司やレビ人たちをヨハネのもとに送るのです。
このファリサイ派の人たちは当時民衆に対する影響力があり、特に彼らは「救世主」「メシヤ」について深い関心を持っていた点から、ヨハネを取り調べる者としてはうってつけであったようです。
当時のローマに抑圧されたユダヤ社会においては、あのダビデ王を彷彿とさせる政治的指導力を持ったメシヤが待望されていたのであります。そういう中、彼らももしかするとヨハネこそ待望の「メシヤではないか」とそう思っていたのかも知れません。
ヨハネは、その人々から「あなたは、どなたですか」と聞かれると、「わたしはメシヤではない」と言います。彼は隠さず公言して、まあきっぱりとそれを否定したのです。次に彼らが「では何ですか?あなたはエリヤですか」とそう聞きますと、これにも「違う」と言い、さらに「預言者なのですか」と聞かれると、「そうではない」と重ねて否定します。
そこでファリサイ派の使者たちは、ヨハネに「自分たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問いますと、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」、預言者イザヤの言葉を用いて答えたというのですね。つまり、自分は主の道をまっすぐにする使命をもつ者であり、「声」にすぎない、と言うのです。
多くの民衆から注目され、支持を受け、ぞくぞくと押し寄せる人々にバプテスマを授けていたヨハネでした。彼は自分を誇示すれば、名誉やステータスを得ることもできたし、まあ言って見ればヒーローになるチャンスが十分あったわけです。けれども、自分は人々の心を真のメシヤであるイエス・キリストに向けさせるための「声」に過ぎない、とヨハネは公言するのです。
それを聞いたファリサイ派の使者たちはこのヨハネの回答に到納得できず、「それではなぜ、バプテスマを授けるのですか」と尋ねます。それは、メシヤでも、預言者でも、指導的な立場でもないただの人が、人々にバプテスマを授けている事自体考えられないことであったからです。
ヨハネはその質問には直接答えずこう言います。「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
ヨハネは、自分とは比べようのないほど偉大な方が自分の後から来られ、自分はそのお方の前では主人の履物のひもを解く奴隷よりも低い者だ、と言うのです。
このようにヨハネの証言を辿っていきますと、彼は主イエスの道備えをなす「声」であるという自覚をもっており、その役割に徹して働きをなしていたということです。自分の後から来られるイエス・キリストこそ、彼の主、世界の主であり、世に顕わされるべきお方であったのです。
もしこのヨハネが世の人々を魅了する独特の力や賜物を、私欲のために用い誇示していたとしたなら、どうなっていたでしょう。ヨハネのカリスマや能力が称賛され、確かにユダヤ全土で大きな影響力をもって何がしかの革命的なことが起こったかも知れません。しかしそれでは真のメシヤ、イエス・キリストの道を備えることには決してならなかったでしょうし、神の救いのご計画が台無しになったのではないでしょうか。
ところで、私はおしるこやぜんざいが大好物なのですが。あれが美味しいのはその中にわずかな「塩」が入っているからですね。今日登場するヨハネは、ある意味独特な個性の持ち主であったとも言われていますが、彼はそんな「塩」のような存在のように私には思えるのです。その隠し味の塩というものが全面に出ると、せっかくのいぜんざいが台無しになるように、主イエスの証しをする者が、自分の存在感を全面に強く打ち出そうとしますと、肝心の神の栄光を表すことができなくなっていまうんですね。この事は私たちの実生活においてもややもすると起こり得ることであります。
たとえば、いくら聖書のことについて知っていたとしても、律法主義的になって人を裁き出すと、人を躓かせてしまいます。教会も人の能力主義で経営、通用するようになると聖霊の働きを妨げることが起こり得るのです。世の人がそんな教会の姿を見るなら、せっかくの主の救いの恵み、イエス・キリストのよい香りは人の高慢によって悪臭になっていきかねません。
マタイ11章11節で、イエスさまはこのヨハネについて次のように言っています。
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった」と。主の前に己を低く、謙虚に生きる者を主は高めてくださるのです。
さて、ヨハネが自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と証言した翌日のことです。ヨハネは自分の方へイエスさまが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。
罪を取り除く小羊、それは古来イスラエルにおいて人の罪の贖いのため代償としてほふられる犠牲の小羊のことです。そして、この神の小羊とはまさにイエスさまのことを表しているのです。この「世の罪を取り除く神の小羊」とは、旧約聖書の預言者イザヤ書53章の「苦難のしもべ」に重ねられているのですね。つまりイエス・キリストは全人類の罪を背負い贖う小羊として十字架上にほふられ、私たちの罪を取り除かれるお方であるのです。
神の御子、ヨハネが履き物のひもを解く値打ちさえ私にはないといったそのお方が、私たちの罪、私の罪の贖いのため十字架にほふられる神の小羊としてお出で下さった。これこそ謙遜の極みではないでしょうか。
ところで、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と2度も言っています。
彼はイエスさまの母マリアの親類のエリサベトの子であり、マリアはエリサベトの家を訪問したりしているわけですし、そう広くはないユダヤの町にあって2人は親類同士、幼少の時代より互いを知っていたと思います。それにも拘らず、ここでヨハネが知らなかったと言っているのは、その「イエスが世の罪を取り除く神の小羊である」ということについてであります。興味深いことに、ルカ福音書にはマリアの訪問に際して、エリサベトの胎内の子は躍った、エリサべトは聖霊に満たされて「わたすに主のお母様がわたしのところに来て下さるとはどういうわけでしょう」と感嘆の声をあげたとあります。
ヨハネはイエスさまについて知っていたのです。けれどもそれを実体として捉えたのは、まさしくヨハネがイエスさまにバプテスマを授けた際に、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って、イエスの上にとどまるのを見たその時であったのです。ヨハネはその聖霊のお働きを介して初めてイエスさまが「世の罪を取り除く神の小羊である」ことを知ったのであります。
私たちもそうではないでしょうか。聖書の言葉やキリスト教の教義を頭では知っていても、知識だけでは本当に知ったことにはならないのです。そこに聖霊の働きがあって、主イエスにある聖霊の交わりがあって、初めて聖書が「いのちの言葉」となり、「救い」となり、又「平安」をもたらすものとして見えてくるんですね。ですから、聖霊のバプテスマは水のバプテスマと違って1回受けて終わりということではなく、主イエスの御霊の交わりにあって日毎に受けるべきもの、それを頂き体験するものなんですね。私はよく、聖霊とはどのようなものですか?と質問を受けることがありますが。正直私もそれを形あるものとして目にしたことはございません。
ヨハネはここで、それを見たと言っていますけれども、それはそもそも生ける神さまご自身であられますから、人が肉眼で見えるものではないので、ヨハネでさえ「鳩のように」と非常に抽象的表現で言い表していますよね。それは肉の目ではなく霊の目でもって確認しなければ見えないものなのです。先程述べましたように、彼が主の前で自分の役割をわきまえており、主の御心こそが成るようにと終始謙虚であったので、彼は主の信任を得ていたということです。自分ではなく、主とその御救いを指し示す者に主はそのご計画を示し、実現に至らせるための霊の業をお見せ下さるのです。私たちも又、ヨハネのように、主の御業の実現を仰ぐべく、いつも謙遜な者でありたいと願います。
さて、ヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが」、イエス・キリストは「聖霊によってバプテスマを授ける人である」とこう主の言葉を聞き、それを見たというのです。ヨハネの水のバプテスマは、人々を罪の悔改めへと招き、救い主イエス・キリストの到来に際して人々を備えさせるためのものでありましたが。救い主イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマは、1章12節にあるように、「受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与える。」そのような神のダイナミックな力なのです。これはすごい恵みですよね。ヨハネ7章37-38節で、イエスさまは立ち上がり大声で聞く者にこのように呼びかけられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」この生きた水こそ聖霊の溢れる恵みであります。
その7章39節で、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」とあるとおりです。
冒頭にお話した昨日のY兄の召天50日記念会に兄弟の全般に亘るお世話をしてくださっていた方が、記念室での納骨を見て、「私もここに入りたいです」とポツリと話されたのです。まあ現役でお仕事もされておられるよし、この先はまだどうなるか分かりませんが。この方がそのようにおっしゃったのは、記念室の建物もさることながら、きっとこの教会において、またそこに集われる方々のうちに、主イエスにある喜びが満ち溢れ、誠意や愛が湧き出るのをお感じになられたのではないかと思いました。ア―メン。これこそ聖霊のお働きですよね。
イエス・キリストは聖霊を通して今日まで、全世界において信じる者のうちに豊かに臨み、活き活きと働いておられます。今日の御言葉からバプテスマのヨハネが「主の道をまっすぐに備えるための、わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と、どこまで救い主イエス・キリストの証人に徹し続けたように、私たちも神さまから頂いた恵みや賜物をもって自分自身ではなく、イエス・キリストを証しする者とされてまいりましょう。
「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」Ⅰヨハネ4章13-14節
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