神の御前で喜び踊る

シモン
礼拝宣教 サムエル記下6章1節-23節 
                               
「神への畏れ」
今日はサムエル記下6章の御言葉からそのメッセージを聞いていきます。
まず、その神の箱ですが。この箱の中身はモーセを通して神が授けられた十戒の刻まれた板が入っており、何よりそれは主が共におられるという印ともなる、イスラエルの民にとって大切な神の箱であったのです。その箱がぺリシテ人らに一旦奪われてしまうのですが、ぺリシテ人らは神の箱を運び込んだことで町に災いが下り、恐れをなした彼らはエルサレムに近いキリアト・エアリムに神の箱を移すのです。
 今日のところでは、その神の箱をイスラエルの王となったばかりのダビデがエルサレムの自分の町に移そうとするわけであります。
 その前半には「牛がよろめき、神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえたウザに、神が怒りを発し、この過失のゆえに彼を打たれた」ということが書かれています。神の箱が落ちてはならないと手で押さえたのになぜだろうと思うのでありますが。実は民数記4章のところを読みますと、かつて神はモーセとアロンに対して、聖所とそのすべての聖なる祭具を宿営から次の宿営へ運搬する時に、「聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」と忠告されているんですね。ウザの場合まさに聖なる神の箱に手を伸ばし、聖なるものに触れ死を招いてしまったということでありましょう。2、3節には彼らが新しい車で神の箱を移そうとした、と重ねて記されています。神のために最新の車を用意したというのは何かすばらしいことのように思えますが、実はそこに大きな過ちがあったのです。
 本来神の箱はその両側に付けた環に、アカシア材の棒を差し込んで、それをレビ族ケハトの氏族だけが「担いで移す」ことがモーセの時以来定められていたのです。人の思いや考えは、「新しい車を用意した」ように、如何にも体裁よく、又効率的であるのがよいように思えるかも知れません。しかし神の知恵と御心は人の思いを遥かに超えておられます。神の定めに畏れをもって彼らがそのように神の箱を聖別された者に担がせ、用心深く運んでいったなら、車は傾かなかったであろうし、ウザも安易に手を伸ばして、聖なるものに触れて死を招くことはなかったでしょう。
 新しい車なら見栄えも効率よく神の箱を運ぶことができる、といった人の思い上がりが、神を怒らせた要因であったのではないでしょうか。私たちは転がり兼ねない神の箱に手を伸ばして、その箱を押さえてどうして悪いのか、と思いますが。問題は、ウザが神になり、神を守り助ける存在となり、神への畏れの念が欠如していた、ということではないでしょうか。
 
さて、そうして神がウザを撃たれたのを目の当りにしたダビデに恐怖心が起こります。「どうして主の箱を私のもとに迎えることができよう」と、それは神への畏れが希薄でまったく足りなかったことへの恐れであります。その恐れのあまり、もはや「ダビデの町、自分のもとに神の箱を移すことを望めなかった」ダビデは、神の箱をペリシテのガト人の家に向かわせます。そこはかつてダビデと戦ったあの巨人ゴリアトもガト人でした。なぜダビデはイスラエル人ではなく、異教のペリシテのガト人の町に神の箱を移したのでしょうか。それは多分、ウザの死の出来事以来、イスラエル人は恐れてだれも神の箱を自分の家に置こうと思わなかった、まあその苦肉の策としてガト人の家に移す外なかったのでありましょう。
 そうして3ヶ月間、神の箱はガト人の家に置かれるのでありますが。思いもよらぬことに神はその家の者一同とその財産のすべてを祝福されます。その報告を聞かされたダビデ王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をガトの家からダビデの町に運び上げるのですね。これはもはや何としてもダビデの町に神の箱を運び上げなければ、ということであります。ダビデは、神は聖なる厳格なお方であると共に、ガトという異教の人のうえにも栄光を表されるお方であることを知ります。
 歴代誌上15章によれば、このガトの人の家からダビデの家に神の箱を運んでいく時、ダビデは「特別に聖別されたレビ人たちによって運ばせた」とあります。そして今日の6章13節には、「主の箱を担ぐ者が」とありますように、今度は車ではなく、主がかつて定められたとおり、箱の環に棒を差しいれ、それをこのために特別に聖別された者に運ばせます。ここにはウザのあの出来事のように二度と主の怒りを招いてはならないという「神への畏れ」の思いが如実に表れているようです。それは、神の箱を担ぐ者が6歩進んだ時、ダビデは肥えた雄牛を神にささげるのですが。ここにも神を敬うダビデの心を読み取ることができます。
 神は聖なるお方です。罪ある人間が到底触れることの出来ないお方であります。にも拘わらず私たちが罪に、あのウザのように滅んでしまうことがないように、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、十字架のみ業によって罪をきよめ、「天の父よ」と呼ぶ特権を私たちに与えてくださっています。どれほど尊い恵みであり、幸いでしょうか。

「神の御前で」
さて、そうして神の箱が運ばれる時、ダビデは麻のエファド・祭司がつける胸当てを身に着け、「神の御前で力のかぎり踊った」とあります。この「踊る」というのは原語で「ぐるぐる回る」という意味があります。彼は運ばれる神の箱の回りを何度も何度もぐるぐる回りながら、イスラエルの人たちと共に喜びの叫びをあげ、跳ねるように力の限り、つまり自分のもてる精一杯を尽くして踊ったのです。 もはや王として人からどう見られているかといった思いは微塵もなかったのでしょう。最新の車で王の威厳を示して運び入れるのではなく、彼は主の御前で、王としてではなく、一人の人間として、神が愛し生かしてくだっている恵み、又、神がともにおられるという確信に満たされながら、その喜びを力のかぎり、跳ね上がるほど踊ることによって表現したのですね。いやむしろ、そのように踊らずにはいられないほどの喜びが溢れていたのですね。
 今日の聖書の箇所には何度も「主の御前で」ということが記されていますが。新約聖書・コロサイの信徒への手紙3章33節には、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」とあります。そのように主への感謝、救いの喜びを、人にどう見られているか、どう思われるかではなく、神の御前にあって神さまのために喜びと感謝を表現し、言い表せる者でありたいですね。 

「喜び合えないミカル」
ところでこのダビデが主の御前で喜び踊る様子を高い所から見下ろしていた人物がいました。前の王サウルの娘ミカルです。彼女は「窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ」というのです。又、ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、ミカルはダビデを迎えて言います。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」 
かなり辛らつな一言ですが。
 このミカルは、かつて父であったサウル王の策略によってダビデの妻とされるのですが。サウル王がダビデに敵意をもったため、ミカルはダビデを守るために尽くします。その後サウル王が激しくダビデの命を狙うようになり、ミカルは父サウル王によって再婚させられてしまうのです。そしてダビデが王になると、ミカルと再婚した相手からミカルを取り戻す、というまあミカルは気の毒な人であったという気もいたしますが。
 いずれにしろここでミカルがダビデの喜ぶ姿に冷淡であったのは、彼の王としての威厳が損なわれたと思えた、そのことへ激しい憤りから来ているのだと思うのです。ミカルはサウル王の娘でしたから、幼少の頃から王の娘として育ち、父サウル王の姿を見ながら育ったのでしょう。そういう中で、王というのはこういう姿であるべきとの観念をもっていたんだと思うんですね。その物差しでダビデ王が踊った姿を見たとき、彼女はもう情けなくなり、それは王としてのプライドを傷つけることだ、とダビデを見下したのです。

そのことに対してダビデはミカルに言います。
21節「そうだ、お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。」
 先ほど申しましたように、ダビデは人ではなく、唯神の御前で、主のために力のかぎり踊ったのですね。そして、「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」というのです。
 それは、自分を王として立てた家臣らは神を畏れ敬う者たちであるから、彼らから返って私は敬われる、とそう言っているのです。神を畏れ敬う家臣たちは、ダビデ王の行動が格好いいとか悪いとかいううわべではなく、その根底にある神への畏れ、感謝、愛を見て、共感するということです。
 
ミカルはかつて主の箱がダビデの町に着いた時、民の喜び、ダビデ歓喜、ダビデが子どものようにはしゃぎながら踊ったその喜びを自分の喜びとすること、共感することができなかったのです。なぜならミカルはダビデを王として立てた神さまをほんとうには知らなかったからです。それはダビデにとって大変残念なことでした。

これは連れ合いから聞いたことですが。
 彼女がかつてイスラエルを巡礼した時、チャプレンが話してくれたそうです。
そのチャプレンが引率する団体に、ある時、行く先々で何かやらかす壮年がいたそうです。これがいなご豆だといえば。湯がきもしていないそのままを口にしてみたり。これはザアカイのいちじく桑の木といえば、気づくと木によじ登っていたり、とそんなことばかりする人だったらしいです。一同この壮年が次に何をやらかすのかと心配しながら各所を回っていたそうですが。そして一行が泉のほとりまで来た時、遂にその壮年が泉の中に入って大声で、「主よ、私を生涯あなたに従う者であらせてください」と、まあ大きな声で祈った時、それまで冷ややかなに彼のことを見ていた人たちは感動して泣き出したそうです。聖霊が働いたんですね。変えられなければならなかたのは、実はその行く先々で「恥ずかしいからやめて」「面倒起こさないで」とやっかいに思われていたその人じゃなく、彼を冷ややかな目で見て、冷笑していた人たちだったんですね。
 個々人の神さまへの向き合い方は様々でしょう。感謝や喜びの表現も人それぞれあって良いのです。こうあらねばならないとか、こうすべきだ、という事はありません。むしろいろんな表現の仕方は拡がりとゆたかさを与えてくれます。
もちろん皆が好き勝手なことをすれば混乱してしまいますけれども。しかし何をするにしても尊いのは、ダビデが主の御前で力のかぎり踊ったように、救いの喜びや感謝が神さまに「私らしく」表されることですね。この私らしくというのが実に大切なのです。誰かのようにではなく、形にはめるのでもなく、私らしく恵みに応えて生きる。その自然体が証しになっていくんですよね。

「神の愛と祝福の糧」
最後に、神の箱がダビデの町に着いて、天幕に置かれたときに、ダビデはまず神の御前にさまざまな献げものをささげました。そしてその後、そこに集った民をダビデは祝福し、そのすべての人たちに、パン、なつめやし、干しぶどうの菓子を分け与え、民は皆、それぞれ自分の家に帰って行った、とあります。
 その配られたものは食べ物だったんでしょうが、その本質は「神の愛と祝福の糧」です。それがそれぞれの遣わされている場に持ち帰られて、さらに分かち合われる。私たちの使命がここに示されているように思えます。
 今日は神の箱を通してのお話でした。今私たちは神の箱に優る主イエスをここにお迎えしています。主イエスの御前で、共にその恵みを力の限り喜びを表し、共に分かち合っていく者とされてまいりましょう。