ひたすら主に喜ばれるものでありたい
礼拝宣教 コリント二5・1-10
本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げています。先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。昨年の9月以降、新たに2名の姉妹が主の御もとに旅立って行かれました。ご遺族、そして教会にとりましてそれは寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じます。
本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご遺族の皆様のうちにはクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおられるでしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
以前にもお話したことですが、私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。その時、悩んだのは家が仏教であるということでした。長男であった私がクリスチャンになると親のことも含め位牌のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。
それについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話くださった牧師はご自分の体験を通じてこのようにアドヴァイスをしてくださったのです。「きみの信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分できる。例えば私の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ。」私はその言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが解けました。そうして高校1年の春のイースター礼拝で、主イエスを救い主と信じてバプテスマを受けたのです。「自分の信仰、神さまとの関係を大事にするという信念は保ち、故人の信仰は尊重する」。とっても大切なことをバプテスマクラスで教えて頂いたと思っております。
話は変わりますが、先日インターネットを見ていたら、「バスの車内で泣き始めた乳児をあやせず困った母親に、運転手が車内アナウンスで語りかけた言葉がネット上で話題になった」という記事に目が留まりほのぼのとさせられました。少しご紹介させて頂くと、「15人ほどが乗った路線バスで母親の腕に抱かれた赤ちゃんがぐずり始めた。母親と友人の女性が2人であやしていたが、赤ちゃんは手足をばたつかせ泣き声は大きくなるばかり。友人は途中で下車し、母親は立ち上がりあの手この手であやすも泣きやむ気配はなかった。10分ほど経った時、車内アナウンスが流れた。『お母さん、大丈夫ですよ。赤ちゃんですから気になさらないでください。きっと眠いか、おなかすいているか、おむつが気持ち悪いか、暑いかといったところでしょうか』
明るい口調でミラー越しに語りかけたのは、乗車歴20年のベテラン運転手Sさん。
『迷惑をかけないよう何とかしたい、というお母さんの焦りをひしひしと感じた。今後バスや電車を使うのをためらうんじゃないかと心配になって』と振り返る。このやりとりがネットに投稿されるとツイッターなどで拡散され、「感動。まさにプロ」「運転手さん素晴らしい」などの投稿が相次いだ」ということでした。
人間味あふれる配慮によってバスの中の空気を一瞬で和やかなものに変えられ、それを伝え聞いた人たちまでも「この世の中もまんざら捨てたものではない」と、心爽やかにされたのではないでしょうか。先週読みましたイエスさまの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」というお言葉は、この複雑化し、人間の関係が希薄になったようにも思える現代社会にありましても、普遍の黄金律でありましょう。
ほんとうに日々目を覆いたくなるような紛争、テロ、事件、事故が国内外において起こっていますが、そのような終末的時代にありましても、地上に神の愛、キリストの香りが放たれ、福音がこの地上を包んでいくように、と祈り願うものであります。
さて本日は、先程読んで戴いたコリント二5章から「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
今日のこの箇所をお読みになられ皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか。難解と思われた方もおられるでしょう。ただこの箇所は単に死後の世界のことがらについて語られているものではなく、この地上における今という時を如何に生きるか、ということが語られているのです。
聖書はそれについて、まず4章18節で語られていますように「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの必要性を説きます。「見える者は過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するのだから」というのです。
使徒パウロは5章1節で「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」と述べます。
幕屋とは、遊牧民などが家畜を牧すために移動するその旅の先々で用いるテントのようなもので、彼らはその幕屋を建てては、そこを仮住まいとしてゆくのでありますが。
私たちは元気なうちは地上での営みがいつまでも変わらず、続くもののように錯覚してしまいがちです。しかし誰もが人生の旅路を終える時、地上の生活はやがて住む者のいなくなった幕屋のようにたたまれる時が必ずくるのです。これに対して使徒パウロは、たとえそのような地上の住みかである幕屋が滅びても、神による建物が備えられている。そのことを私たちは知っている、というのですね。
目に見えるもの、世の力、自我を頼りにするのであれば死は恐れでしかありません。
わたしたちはみな肉のままではただ廃れ、罪に滅びるほかない身なのです。
しかし神は、その肉なる者、はやがては廃れ、罪に滅びるほかない者に、神の建物、天にある永遠の住みかを与えてくださったのです。私たちは何かそれを受けるに相応しいからそのような祝福に与っているのではありません。
5節にもあるとおり「わたしたちを、このようになるにふさわしい者としてくださったの『神』です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」。ここが重要なのであります。
ヨハネ3章16節にはこのようにあります、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この独り子なるイエス・キリストが、罪に滅びるほかない私たちを十字架の御業によってあがない出し、その保証として霊(聖霊)を与えて下さった。そのことによって主イエスを救い主と信じる者、クリスチャンは「永遠の住みかに与る」希望を頂いているのですね。
聖霊は私たちのうちに住まわれ、肉の働きを制し、愛で満たし、喜びと平安を常に与えようとしていてくださいます。それは目には見えませんが生きて確かにお働きになられ、私たちがこの地上にありながらも永遠の命に生かされていることを教えて下さるのです。
さてパウロは、「わたしたちは、天から与えられる住みかをうえに着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と言っています。
救いの約束に与ったとはいえ、この地上にある限り葛藤すべきものがあります。「救いを得たのだからもう地上の生活はどうでもいい、わずらわしさは脱ぎ捨てて天国之だけが楽しみよ」というのではないのです。天の住いに相応しくない自分の罪の性質や弱さ、はたまた重荷を負ってうめくような事ごとにも、信仰をもって真摯に生きてゆく。それがパウロのいう「天から与えられる住みかを上に着る」ということではないでしょうか。神はそのことを私たちに期待しておられるのではないでしょうか。
今日、召天記念礼拝として、主にあってこの地上でのご生涯を閉じられた会員会友の兄弟姉妹をしのびつつ、ご遺族の方々と共に礼拝をささげておりますが。先に天に召された兄弟姉妹お一人おひとりの地上でのあゆみすべてを、主はご存じであられ、それぞれが天の御国にあって主の御顧みを得ていることと信じます。
パウロは9節でこう述べています。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。
いつの日か、神の裁きの座の前に立ち、体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けるべき時がまいります。私たちも又、天にある永遠の住みかをめあてとして、
「ひたすら神さまに喜ばれる者でありたい」との思いを持って、希望の道を歩んでまいりたいものです。
最後に聖書を読んで今日の宣教を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えない者は永遠に存続するからです。」
コリント二4章18節
本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げています。先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。昨年の9月以降、新たに2名の姉妹が主の御もとに旅立って行かれました。ご遺族、そして教会にとりましてそれは寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じます。
本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご遺族の皆様のうちにはクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおられるでしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
以前にもお話したことですが、私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。その時、悩んだのは家が仏教であるということでした。長男であった私がクリスチャンになると親のことも含め位牌のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。
それについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話くださった牧師はご自分の体験を通じてこのようにアドヴァイスをしてくださったのです。「きみの信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分できる。例えば私の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ。」私はその言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが解けました。そうして高校1年の春のイースター礼拝で、主イエスを救い主と信じてバプテスマを受けたのです。「自分の信仰、神さまとの関係を大事にするという信念は保ち、故人の信仰は尊重する」。とっても大切なことをバプテスマクラスで教えて頂いたと思っております。
話は変わりますが、先日インターネットを見ていたら、「バスの車内で泣き始めた乳児をあやせず困った母親に、運転手が車内アナウンスで語りかけた言葉がネット上で話題になった」という記事に目が留まりほのぼのとさせられました。少しご紹介させて頂くと、「15人ほどが乗った路線バスで母親の腕に抱かれた赤ちゃんがぐずり始めた。母親と友人の女性が2人であやしていたが、赤ちゃんは手足をばたつかせ泣き声は大きくなるばかり。友人は途中で下車し、母親は立ち上がりあの手この手であやすも泣きやむ気配はなかった。10分ほど経った時、車内アナウンスが流れた。『お母さん、大丈夫ですよ。赤ちゃんですから気になさらないでください。きっと眠いか、おなかすいているか、おむつが気持ち悪いか、暑いかといったところでしょうか』
明るい口調でミラー越しに語りかけたのは、乗車歴20年のベテラン運転手Sさん。
『迷惑をかけないよう何とかしたい、というお母さんの焦りをひしひしと感じた。今後バスや電車を使うのをためらうんじゃないかと心配になって』と振り返る。このやりとりがネットに投稿されるとツイッターなどで拡散され、「感動。まさにプロ」「運転手さん素晴らしい」などの投稿が相次いだ」ということでした。
人間味あふれる配慮によってバスの中の空気を一瞬で和やかなものに変えられ、それを伝え聞いた人たちまでも「この世の中もまんざら捨てたものではない」と、心爽やかにされたのではないでしょうか。先週読みましたイエスさまの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」というお言葉は、この複雑化し、人間の関係が希薄になったようにも思える現代社会にありましても、普遍の黄金律でありましょう。
ほんとうに日々目を覆いたくなるような紛争、テロ、事件、事故が国内外において起こっていますが、そのような終末的時代にありましても、地上に神の愛、キリストの香りが放たれ、福音がこの地上を包んでいくように、と祈り願うものであります。
さて本日は、先程読んで戴いたコリント二5章から「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
今日のこの箇所をお読みになられ皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか。難解と思われた方もおられるでしょう。ただこの箇所は単に死後の世界のことがらについて語られているものではなく、この地上における今という時を如何に生きるか、ということが語られているのです。
聖書はそれについて、まず4章18節で語られていますように「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの必要性を説きます。「見える者は過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するのだから」というのです。
使徒パウロは5章1節で「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」と述べます。
幕屋とは、遊牧民などが家畜を牧すために移動するその旅の先々で用いるテントのようなもので、彼らはその幕屋を建てては、そこを仮住まいとしてゆくのでありますが。
私たちは元気なうちは地上での営みがいつまでも変わらず、続くもののように錯覚してしまいがちです。しかし誰もが人生の旅路を終える時、地上の生活はやがて住む者のいなくなった幕屋のようにたたまれる時が必ずくるのです。これに対して使徒パウロは、たとえそのような地上の住みかである幕屋が滅びても、神による建物が備えられている。そのことを私たちは知っている、というのですね。
目に見えるもの、世の力、自我を頼りにするのであれば死は恐れでしかありません。
わたしたちはみな肉のままではただ廃れ、罪に滅びるほかない身なのです。
しかし神は、その肉なる者、はやがては廃れ、罪に滅びるほかない者に、神の建物、天にある永遠の住みかを与えてくださったのです。私たちは何かそれを受けるに相応しいからそのような祝福に与っているのではありません。
5節にもあるとおり「わたしたちを、このようになるにふさわしい者としてくださったの『神』です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」。ここが重要なのであります。
ヨハネ3章16節にはこのようにあります、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この独り子なるイエス・キリストが、罪に滅びるほかない私たちを十字架の御業によってあがない出し、その保証として霊(聖霊)を与えて下さった。そのことによって主イエスを救い主と信じる者、クリスチャンは「永遠の住みかに与る」希望を頂いているのですね。
聖霊は私たちのうちに住まわれ、肉の働きを制し、愛で満たし、喜びと平安を常に与えようとしていてくださいます。それは目には見えませんが生きて確かにお働きになられ、私たちがこの地上にありながらも永遠の命に生かされていることを教えて下さるのです。
さてパウロは、「わたしたちは、天から与えられる住みかをうえに着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と言っています。
救いの約束に与ったとはいえ、この地上にある限り葛藤すべきものがあります。「救いを得たのだからもう地上の生活はどうでもいい、わずらわしさは脱ぎ捨てて天国之だけが楽しみよ」というのではないのです。天の住いに相応しくない自分の罪の性質や弱さ、はたまた重荷を負ってうめくような事ごとにも、信仰をもって真摯に生きてゆく。それがパウロのいう「天から与えられる住みかを上に着る」ということではないでしょうか。神はそのことを私たちに期待しておられるのではないでしょうか。
今日、召天記念礼拝として、主にあってこの地上でのご生涯を閉じられた会員会友の兄弟姉妹をしのびつつ、ご遺族の方々と共に礼拝をささげておりますが。先に天に召された兄弟姉妹お一人おひとりの地上でのあゆみすべてを、主はご存じであられ、それぞれが天の御国にあって主の御顧みを得ていることと信じます。
パウロは9節でこう述べています。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。
いつの日か、神の裁きの座の前に立ち、体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けるべき時がまいります。私たちも又、天にある永遠の住みかをめあてとして、
「ひたすら神さまに喜ばれる者でありたい」との思いを持って、希望の道を歩んでまいりたいものです。
最後に聖書を読んで今日の宣教を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えない者は永遠に存続するからです。」
コリント二4章18節
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