変えられる時

シモン
宣教 ルカ1章26~38節 

本日はルカ1章より、「変えられる時」と題し、み言葉を聴いていきます。この個所は受胎告知の場面としてよくこのアドヴェントの時期に読まれる箇所であり、私どもにも馴染み深い記事であります。
救い主誕生の告知は、マタイ福音書ではマリアのいいなずけのヨセフに、このルカ福音書ではマリアという一人のおとめにスポットライトがあてられています。
祈祷会の聖書の学びの時に、教会学校のクリスマスページェント(降誕劇)のこの場面のことが話題にのぼりましたが。天使が「恵まれた女よ、おめでとう」と受胎告知をいたしますと、マリアが間髪入れずに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、まあそんなふうに即答するのですね。けれどもマリアの置かれた状況等を考えましても、そんなに「はいはい、ありがたいことです、どうぞ」などと言えるものではなかったでしょうから、マリアが天使の言葉を受け入れていくには相当な沈黙の時間といいますか、思い巡らし悩んでいる時間があったのではないでしょうか。教会図書の棚に「マリア」という比較的新しい映画のビデオがございますが。それを観ますと、天使の言葉を聞きマリアが「お言葉どおりに」と応えていくまで、彼女は日常の中でそれを思い巡らし悩んだ様子が丁寧に描かれております。今日はそんなマリアが、神のみ言葉とご計画を受けとめていくプロセスを覚えながら、み言葉に聴いていきたいと思います。

さて、マリアは婚約者のヨセフと結婚をし、平凡ですが幸せな家庭を築くはずでした。
ところが、そこに天使が現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との言葉を聞くのです。マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、口語訳では「思い巡らした」とあります。
いきなり天使の出現を受け「おもでとう、恵まれた方」と言われても怖じ惑うのは当然でしょうし、「主があなたと共におられる」と言われても、一体何の事だろうかと考え込んだのも無理ありません。さらに天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とお告げになります。
マリアはこの天使のお告げを一体どのように聞いたのでしょうか。一方的に語られる神のご計画。それも自分が子を産むことから起こされるというのです。そうなりますと、おのずといろんな思い悩みや不安、恐れがきっとマリアのうちに襲ってきたはずであります。マリアはヨセフと婚約していました。が、ヨセフが知らないうちに胎に子を宿すということになるのですから、その現実を引き受けなければならない苦悩は深刻でした。それは姦淫罪で石打ちの刑に処せられるというマリア自身の身に危険が及ぶことであり、又婚約者のヨセフに対してどう申し開きができるのかという恐れと不安もあったことでしょう。
マリアは天使の言葉に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。そこにマリアが天使に対して、「そんなことはありえない」という精一杯抵抗する様が読みとれます。

しかし、マリアは38節では「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、まっすぐに応えていくのですね。そのように本日の個所には、重大なお告げを受け入れ切れずに戸惑い、恐れと不安を抱いていたマリアと、御言葉を受け入れて生きようとするマリアの姿が描かれています。

マリアがそのように変えられたのは一体何によるのでしょうか。ここでもう一人の登場人物である天使にスポットをあててみましょう。
天使は「神に仕え、神のみ旨を伝えたり、人間を守護し導く存在」と言われています。
ルカ福音書によれば、マリアに主のお告げを伝えたのは大天使ガブリエルであったとあります。先ほどの話にも出ましたクリスマスのぺ―ジェント(降誕劇)の中で、その舞台回しをしていく役割、話を進めていく役割は、よくよく考えますとみな天使たちなのです。マリアに天使が現れて告げる。羊飼いに天使が現れて告げる。博士たちにやはり天使が現れて告げる。その前後にはザカリアに、またヨセフにも天使が現れます。これはクリスマスの物語の一つの特徴であります。クリスマスの出来事はこの天使を抜きに語ることができないのです。そして今日の場面では、主の言葉を受け入れ切れずに戸惑いや恐れ不安を抱えているマリアが変えられて、それを受け入れて生きるようにと天使が励ましているのです。

以前にもお話しましたが。私が神学生の時代に恩師である牧師が、礼拝の幼児祝福式に「この子のため、又、この子を守り育てる親や家族、また教会の家族のためにお祈りします」と祈られた後に、「この子にいつもついて守ってくださる天のみ使いのためにお祈りします」とおっしゃった言葉が今でも心に残っています。その恩師からは「親は子供に対して支配的になったり、自分に都合よく、思い通りに育てたくなる。しかし、人はそれぞれに、たとえそれが子どもであっても、神さまがかけがえのないたった一つの作品としてお造りになり、育んでおられる。その御心が成るために、その子には、その子を守る天使がついている。その子にはその子を守る専門の天使がついてくださっている。だから、その子の神聖なる領域を侵したり、蔑ろにすることは親ですら許されていない。その天使が許さなければ、親はどうあろうともその子を支配することなどできない」ということを教えて戴きました。これは親子関係だけのことではありません。人と人の関係、又教育の現場にもあてはまることといえるでしょう。大阪の教育基本条例が改悪されようとしていることも、これはある意味天使の領域を侵す問題と言えないでしょうか。
まあ今の子どものことを申しましたが、大人に対してもイエスさまはマタイ18章で、「心を入れ替え、幼子のようにならなければ決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして子どものようになる人こそ、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました。又、主のために、そのような小さき弱い人を受け入れる人の幸いを説かれました。それから続けてこうも言われています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないよう気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも天の父の御顔を仰いでいるのだから」。

さて、話を聖書に戻しますが。
マリアは天使の励ましによって変えられたのですが。それは具体的に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。さらに「神にできないことは何一つない」というみ言葉であります。この天使の言葉を信じて受けとった時、彼女はもはや迷いなくまっすぐに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言い表すことができたのです。
その決断の先に待ちうけていた現実の問題は確かに厳しいものでありました。マリアが引き受けていこうとしていることは、ごく若い一人の女性が負うにはあまりに大きな課題がありました。婚約者や社会からもドロップアウトされてしまう、これから何も頼るものがなく、何も支えられるものがないところに身をおくという決断であったからです。
しかしマリアは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とのみ言葉を身に受け、その約束にかけて生きようとする決断をしたのです。
誰にも頼れない。親にも、いいなずけのヨセフさえ頼れないその中で、ただ一つ確かな支え。それは天使の伝えたこのみ言葉であり、「神にできないことは何一つない」というみ言葉への信頼でありました。彼女は目に見える保証によらず、聖霊によって支えられる信仰に自分を委ねきった、かけたのです。マリアはその信仰によってこの未知の出来事を受けとってゆくのです。
高齢のエリサベトの胎に子(バプテスマのヨハネ)を宿すという告知も、このおとめマリアの胎に救い主イエスを宿すという告知も、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは異なるものであります。差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とは素直に言えないのが私たちではないでしょうか。又、私たちは自分の力で何かを得ようとしたり、逆に遠ざけようとするので、自分がこれだけのことをするから、恵みを受けるにふさわしい、あるいはできないからふさわしくないと思ったり、又神さまこれだけのことをしたのに、何の見返りもない、と考えるかもしれません。でもそんな人の計り事と神のご計画、なさる事とは異なるのです。ここに人の側の葛藤が起こる。
神が先にあるんではなく、まず自分があって神が後にあるんです。何かをしたから当然報いがある、恵まれる。また逆に、何もしないで恵みに与れるなんておかしい、自尊心が満足しないという人もいるかもしれません。又、自分の思いどおりでないプレゼントなど神さま私はいりません、とクリスチャンであってもなかなか主の恵みを受け入れることができない。けれども、それではせっかくあなたのために主が用意されたご計画が台なしになってしまいます。
ローマ9章33節の「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者(イエスを信じる者)は、失望することがない」との約束は真実です。
み言葉にどこまでもより頼みつつ、与えられている主のご計画と約束された恵みを受けとり、主に従う。そういうシンプルな姿勢が大切なのです。それがほんとうの謙遜であり、信仰であります。私たち一人ひとりが30節に記されているとおり、マリアと同様、聖霊によって「神から恵みをいただいた」ものなのです。

私どもも又、変わりたい自分があります。変わりたい課題をもっています。そうであるならば、この今日のみ言葉は私たちにも真理となるでしょう。「み言葉を聞いて、受け入れることによって私は変わる」。そうだからクリスチャンの人生には希望があるのです。 
ヨハネ福音書1章に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されていますが、このマリアの応答「お言葉がこの身に成りますように」というのは、まさにそれは「イエス・キリスト」のことなのであります。神の言葉が受肉した。そのイエス・キリストを聖霊のお支えによって信じ、受け入れる時、その魂の根底に変化が起こっていきます。求道中である方も、すでにクリスチャンとなった者も、今日心新たに救い主を受け入れていく決心が与えられますよう、祈ります。

私たちはこのマリアに天使の語りかけがあったのは、「彼女が受け入れ難いことに悩み、苦悩する中であった」ということを、希望として心に納めておきたいと思います。私たちが苦闘の中にある時、どうしようもなくお手上げのその悶々とした只中に、主は天使を送り、み言葉を与え、ご聖霊の臨在と、信頼への導きをお与えくださいます。ある場合は人との出会いを通して、ある時には聖書を通して、メッセージを通して、ささいな出来事を通してそれは働かれるでありましょう。主は何らかのサインを私たちに送ってくださいます。信仰に基づく柔らかな感性でそれをキャッチできる人は幸いです。
マリアはページェントの降誕劇のように、天使の言葉に「即答」したのではありませんでした。彼女は天使の言葉を心に留めて戸惑い、何度も思い巡らし、祈りの葛藤をする中で、最終的に「主の言葉とご計画」、そして「救い主イエス」を受け入れる者に変えられたのであります。
「変えられる時」。アドヴェントとは、まさにこのような神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。解き放たれたい自分、変えられたい自分、その自分を神のみ前にひっさげて謙虚に立つ。まさにその自分の貧しく、弱いところに、ご聖霊が降り、「神からの恵みを受けとっていく」私たちでありたいと切に願いつつ、主のご降誕に備えてまいりましょう。