神へのささげもの
宣教 ルカ4章32~5章11節
本日で未曾有の東日本大震災と原発事故から丁度1年を迎えます。この出来事による傷跡は未だに癒えるような状況ではなく、悲しみと苦悩の日々を送っておられる被災者の方々が数知れずおられます。先日、被災者の方がたの今の心境がアンケートで取られた結果、多くの被災者の方々が経済の問題、家族の問題、住居の問題、人間関係などにおいてその「絆が弱っている」「絆が薄れている」と、答えられたということであります。この意外な結果に改めてその厳しい現実を突きつけられた思いで、ほんとうに考えさせられました。つながり合って生きるその絆の真価が、これはわたしたちとりましても、今後まさに問われていくのでしょう。
私どもが属する日本バプテスト連盟は東野にボランティアセンターを開設し、現在仮設住宅で避難生活をしておられる方がたへの心のケアや訪問等の活動がなされています。又、今日の午後5時から、東日本大震災のすべての被災者を覚えての追悼と再生を願う祈祷集会が梅田カトリック教会(サクラファミリア)で行われますので、時間の許す方はぜひお出かけください。
さて、本日は使徒言行録4章32節~5章11節より「神へのささげもの」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。先週の3章にもございましたように、聖霊を受けた使徒たちは、主イエスの十字架と復活の福音宣教を大胆に語り、主は救われる人々を日々仲間に加えられ、そうして遂にキリストによる共同体、キリストの教会が誕生するのであります。
①「共有する群れ」
本日の箇所は4章32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、信者の生活について記された2章44節以降にも「信者たちは皆一つとなって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれぞれに分け合った」と記されています。そうして「心を一つに礼拝を捧げる彼らの姿は民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加えられた」とあります。本日の箇所あたりにはゆうに1万人を超える人々が信じ救われていたようですから、その群れは一つとは限りませんで、複数あったのかも知れませんが。いずれにしろその群れが「心も思い(原語:プシュケー;霊・魂・命の息)も一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と、記すのであります。「一人として持ち物を自分のものだと言う人はいなかった」。それは信仰の面だけでなく、その生活までもが主の福音によってつながり、分かち合われていたということであります。
一方、そのように多くの物が差し出され、分配される中で、僅かしか持たない者や全く持たない貧しい人たちは、受ける恵みとともに、差し出すことのできない引け目もあったかも知れません。けれども、主によって豊かにされた彼らの喜びと感謝は、大きな証しとなって主の栄光を現わす共同体の宝であったことでしょう。そのように、物心両面で主にある人々が、「すべて」を共有していたということはほんとうにすごいことであります。
そこに、十字架と復活の主にあって「心も霊も一つにし、すべてを共有していた」。ここに私たちもキリスト教会のひな型としての初代教会の姿を見る事ができます。
②「主の貧しさと豊かさ」
さて、34節に「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」と記されていますが。
これを読むと、「ほんとうに一人も貧しい人がいなかたのか?」「そんなことがあり得るのか?」と、疑問に思います。しかし、ここで伝えんとしていることは、貧しさのゆえに孤立し、無関心の中に置かれている人は一人もいない、ということです。
パウロをはじめ使徒たちは、主イエスご自身が、世に小さくされた人々を受け入れ、愛されて、関わり、あゆみを共にしてくださったこと。いつも主の晩餐の時に覚えることでありますが。又「受けるよりは与える方が幸いである」と、その模範を示された事を。繰り返し信徒たちに語り伝えていたことでしょう。
Ⅱコリント8章9節に「主は豊かであったのに、あなたがたのいために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、あるとおりです。主イエスを信じ、そのあゆみに倣い従う時に「一人も貧しい人がいない」という強い確信が主を信じる群れの中にあったからです。
「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と記されています。そう聞きますと、現代の私たちは唯々驚嘆するばかりでありますが。大切なのは、そのささげものが、各々主にあって、「主が豊かであったのに貧しくなられた」という信仰から、純粋かつ惜しみなくささげられていったものである、ということなのです。この神へのささげものは、強制でも、制度によるものでもなく、各々が主の大いなる恵みに対して、自由に、かつ自主的になされていったということが、ほんとうに尊いことなのです。そこにキリストの福音の真のゆたかさがもたらされていくのであります。
そのような中で、36節「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ(慰めの子の意味)と呼ばれていたヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」ことが紹介されています。ここで彼は「畑を売り、その代金を持って来て」とありますが、これは畑を売った代金の全額、全てというものでした。彼もまた、「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた」との、十字架と復活の主による信仰から押し出されるように、このようなささげものをなしたのであります。
少し話は変わりますが。先日NHKのテレビで「人類がお金を持つようになっていったその歴史」について放映されていました。人間は太古より物々交換で決められたものしか手に入れることができなかったのが、お金(貨幣)を造り、使用することによって、様々なものを自由に買うことができるようになった、というのは皆さまもご存じのとおりです。そのお金についてですが、人間の脳の中には、お金を得ることで満足して反応するし部位が2か所あるそうです。ある実験がなされました。2人のうち1人に金持ちに、もう1人に貧しい人の役になってもらいます。まず金持ちの人にお金を渡します。するとその金持ちの人の脳内にある満足部位は確かに大きく反応しました。次の場面ではそこに貧しい人にも登場してもらい、その目の前で、さらに金持ちの人にお金を渡します。すると金持ちの人の脳内満足部位はわずかに反応するだけで、最初のようには大きく反応なかったのです。そこで、隣にいる貧しい人にお金を渡します。するとどうでしょう、金持ちの人の脳内満足部位が大きく反応したのです。そういう実験をして、殆どの人が同じ結果となったというのですね。つまり、人間の心や魂とも通じている脳は、自分が豊かになることを欲するのは当然ですが、貧しい人を前にするとき、その貧しい人が豊かになることを通して、自分の心や魂も満ち足り、豊かになる、というように出来ている。そのことが実証されたということであります。いや、神さまがそのように私たち人間をお造りになられたということでありますね。
③「神への欺き」
聖書に戻りますが、純粋に心から惜しみなく主にささげ祝福を分かち合ったバルナバと対照的だったのが、アナニアとサフィラでありました。
5章1-2節「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
ここで問題になっているのは、ペトロが8節でサフィラに問うているように、彼らが土地を売った値段をごまかしたことであり、あたかもそれが土地を売った全額を主にささげたかのようにして、「神を欺いた」ということであります。先のバルナバのことを意識していたかどうかわかりませんが。彼らは真心からささげたバルナバと異なり、自分たちの名誉や自己顕示のために、あるいは人から信用や信頼を得たいがために、神を欺き、教会を利用したのであります。もっと言えば、心も思いも一つにしていたキリストの聖なる交わりを欺き、壊したのであります。
アナニアは「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」とのペトロの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた、と記されています。
彼は自分の犯した過ちの重大さを知った衝撃で、或は神の裁きの重さに押しつぶされて、息が絶えたといえます。更に、ペトロはその三時間後に現れた妻のサフィラにも問います。その3時間はサフィラが思い直すための猶予ともいえる時でもありました。もちろん彼女は夫の息の絶えたことは知りません。ペトロはサフィラにこう問いかけます。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。答えなさい」。つまりサフィラには真実をきちんと語る機会が与えられたのです。しかしながら彼女は、「はい、その値段です」と、それが土地を売った全額ですと、断言します。彼らの行為は確かに人に害を及ぼしたり、迷惑をかけるようなものではありませんでした。それなのにどうして彼らの息が絶えてしまわなければならないのか、愛を説くキリスト教からするとこれは厳し過ぎはしないか、 と思われる方もおられるかも知れません。
この彼らの「息が絶えた」という「息」は原語で「プシュケー」という語で、新約聖書に101回も出てくる重要語であります。それは人間が神の息(霊)によって命を受け、生きる者とされた「命の息」や「霊」や「魂」とも訳されます。それが「絶えた」というのです。冒頭の32節のところで、「信じた人々の群れは心も思いも一つにして」と記されてありましたが。実はこの「思い」というのは単なる思いというものではなく、何と原語では「命の息」そのものを指すあのプシュケーなのですね。つまり「主を信じた人々の群れは神の命の息によって一つとされ、つながって生きていた」のです。アナニアとサフィラは、そのように神の命の息により一つとされていた主を信じる人々の群れから絶たれた、いや、自らその交わりを絶ち切ってしまった、ということです。聖書は彼らがこのようなかたちで「神を欺いた」ことについて、厳しくその罪を問うているのです。それは又、生けるキリストの体としての教会を主がかくも愛しておられる、ということであります。
私たちは、そのような主に対して如何に誠実であるかが、ここに問われているのです。
先ほど詩編111編を交読いたしましたが、その10節に「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」と謳われていましたが。彼らが本当の意味で、「神を畏れる」者であったのなら、こういう事態にはならなかったといえます。
本日の箇所から「神へのささげもの」と題し、み言葉に聞いてきましたが。
私たちはまず、主の十字架のあがないという犠牲のもと、主の貧しさと豊かさに与り、生かされている者であるということを日々忘れないようにしたいと思います。そして恵みのうちに、「御神の命の息」によって私たちも又、一つとされていることを覚え、ささげ、分かち合い、共に主の栄光を現わすため用いられてまいりましょう。
本日で未曾有の東日本大震災と原発事故から丁度1年を迎えます。この出来事による傷跡は未だに癒えるような状況ではなく、悲しみと苦悩の日々を送っておられる被災者の方々が数知れずおられます。先日、被災者の方がたの今の心境がアンケートで取られた結果、多くの被災者の方々が経済の問題、家族の問題、住居の問題、人間関係などにおいてその「絆が弱っている」「絆が薄れている」と、答えられたということであります。この意外な結果に改めてその厳しい現実を突きつけられた思いで、ほんとうに考えさせられました。つながり合って生きるその絆の真価が、これはわたしたちとりましても、今後まさに問われていくのでしょう。
私どもが属する日本バプテスト連盟は東野にボランティアセンターを開設し、現在仮設住宅で避難生活をしておられる方がたへの心のケアや訪問等の活動がなされています。又、今日の午後5時から、東日本大震災のすべての被災者を覚えての追悼と再生を願う祈祷集会が梅田カトリック教会(サクラファミリア)で行われますので、時間の許す方はぜひお出かけください。
さて、本日は使徒言行録4章32節~5章11節より「神へのささげもの」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。先週の3章にもございましたように、聖霊を受けた使徒たちは、主イエスの十字架と復活の福音宣教を大胆に語り、主は救われる人々を日々仲間に加えられ、そうして遂にキリストによる共同体、キリストの教会が誕生するのであります。
①「共有する群れ」
本日の箇所は4章32節に「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、信者の生活について記された2章44節以降にも「信者たちは皆一つとなって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれぞれに分け合った」と記されています。そうして「心を一つに礼拝を捧げる彼らの姿は民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加えられた」とあります。本日の箇所あたりにはゆうに1万人を超える人々が信じ救われていたようですから、その群れは一つとは限りませんで、複数あったのかも知れませんが。いずれにしろその群れが「心も思い(原語:プシュケー;霊・魂・命の息)も一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と、記すのであります。「一人として持ち物を自分のものだと言う人はいなかった」。それは信仰の面だけでなく、その生活までもが主の福音によってつながり、分かち合われていたということであります。
一方、そのように多くの物が差し出され、分配される中で、僅かしか持たない者や全く持たない貧しい人たちは、受ける恵みとともに、差し出すことのできない引け目もあったかも知れません。けれども、主によって豊かにされた彼らの喜びと感謝は、大きな証しとなって主の栄光を現わす共同体の宝であったことでしょう。そのように、物心両面で主にある人々が、「すべて」を共有していたということはほんとうにすごいことであります。
そこに、十字架と復活の主にあって「心も霊も一つにし、すべてを共有していた」。ここに私たちもキリスト教会のひな型としての初代教会の姿を見る事ができます。
②「主の貧しさと豊かさ」
さて、34節に「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」と記されていますが。
これを読むと、「ほんとうに一人も貧しい人がいなかたのか?」「そんなことがあり得るのか?」と、疑問に思います。しかし、ここで伝えんとしていることは、貧しさのゆえに孤立し、無関心の中に置かれている人は一人もいない、ということです。
パウロをはじめ使徒たちは、主イエスご自身が、世に小さくされた人々を受け入れ、愛されて、関わり、あゆみを共にしてくださったこと。いつも主の晩餐の時に覚えることでありますが。又「受けるよりは与える方が幸いである」と、その模範を示された事を。繰り返し信徒たちに語り伝えていたことでしょう。
Ⅱコリント8章9節に「主は豊かであったのに、あなたがたのいために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と、あるとおりです。主イエスを信じ、そのあゆみに倣い従う時に「一人も貧しい人がいない」という強い確信が主を信じる群れの中にあったからです。
「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と記されています。そう聞きますと、現代の私たちは唯々驚嘆するばかりでありますが。大切なのは、そのささげものが、各々主にあって、「主が豊かであったのに貧しくなられた」という信仰から、純粋かつ惜しみなくささげられていったものである、ということなのです。この神へのささげものは、強制でも、制度によるものでもなく、各々が主の大いなる恵みに対して、自由に、かつ自主的になされていったということが、ほんとうに尊いことなのです。そこにキリストの福音の真のゆたかさがもたらされていくのであります。
そのような中で、36節「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ(慰めの子の意味)と呼ばれていたヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」ことが紹介されています。ここで彼は「畑を売り、その代金を持って来て」とありますが、これは畑を売った代金の全額、全てというものでした。彼もまた、「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた」との、十字架と復活の主による信仰から押し出されるように、このようなささげものをなしたのであります。
少し話は変わりますが。先日NHKのテレビで「人類がお金を持つようになっていったその歴史」について放映されていました。人間は太古より物々交換で決められたものしか手に入れることができなかったのが、お金(貨幣)を造り、使用することによって、様々なものを自由に買うことができるようになった、というのは皆さまもご存じのとおりです。そのお金についてですが、人間の脳の中には、お金を得ることで満足して反応するし部位が2か所あるそうです。ある実験がなされました。2人のうち1人に金持ちに、もう1人に貧しい人の役になってもらいます。まず金持ちの人にお金を渡します。するとその金持ちの人の脳内にある満足部位は確かに大きく反応しました。次の場面ではそこに貧しい人にも登場してもらい、その目の前で、さらに金持ちの人にお金を渡します。すると金持ちの人の脳内満足部位はわずかに反応するだけで、最初のようには大きく反応なかったのです。そこで、隣にいる貧しい人にお金を渡します。するとどうでしょう、金持ちの人の脳内満足部位が大きく反応したのです。そういう実験をして、殆どの人が同じ結果となったというのですね。つまり、人間の心や魂とも通じている脳は、自分が豊かになることを欲するのは当然ですが、貧しい人を前にするとき、その貧しい人が豊かになることを通して、自分の心や魂も満ち足り、豊かになる、というように出来ている。そのことが実証されたということであります。いや、神さまがそのように私たち人間をお造りになられたということでありますね。
③「神への欺き」
聖書に戻りますが、純粋に心から惜しみなく主にささげ祝福を分かち合ったバルナバと対照的だったのが、アナニアとサフィラでありました。
5章1-2節「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
ここで問題になっているのは、ペトロが8節でサフィラに問うているように、彼らが土地を売った値段をごまかしたことであり、あたかもそれが土地を売った全額を主にささげたかのようにして、「神を欺いた」ということであります。先のバルナバのことを意識していたかどうかわかりませんが。彼らは真心からささげたバルナバと異なり、自分たちの名誉や自己顕示のために、あるいは人から信用や信頼を得たいがために、神を欺き、教会を利用したのであります。もっと言えば、心も思いも一つにしていたキリストの聖なる交わりを欺き、壊したのであります。
アナニアは「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」とのペトロの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた、と記されています。
彼は自分の犯した過ちの重大さを知った衝撃で、或は神の裁きの重さに押しつぶされて、息が絶えたといえます。更に、ペトロはその三時間後に現れた妻のサフィラにも問います。その3時間はサフィラが思い直すための猶予ともいえる時でもありました。もちろん彼女は夫の息の絶えたことは知りません。ペトロはサフィラにこう問いかけます。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。答えなさい」。つまりサフィラには真実をきちんと語る機会が与えられたのです。しかしながら彼女は、「はい、その値段です」と、それが土地を売った全額ですと、断言します。彼らの行為は確かに人に害を及ぼしたり、迷惑をかけるようなものではありませんでした。それなのにどうして彼らの息が絶えてしまわなければならないのか、愛を説くキリスト教からするとこれは厳し過ぎはしないか、 と思われる方もおられるかも知れません。
この彼らの「息が絶えた」という「息」は原語で「プシュケー」という語で、新約聖書に101回も出てくる重要語であります。それは人間が神の息(霊)によって命を受け、生きる者とされた「命の息」や「霊」や「魂」とも訳されます。それが「絶えた」というのです。冒頭の32節のところで、「信じた人々の群れは心も思いも一つにして」と記されてありましたが。実はこの「思い」というのは単なる思いというものではなく、何と原語では「命の息」そのものを指すあのプシュケーなのですね。つまり「主を信じた人々の群れは神の命の息によって一つとされ、つながって生きていた」のです。アナニアとサフィラは、そのように神の命の息により一つとされていた主を信じる人々の群れから絶たれた、いや、自らその交わりを絶ち切ってしまった、ということです。聖書は彼らがこのようなかたちで「神を欺いた」ことについて、厳しくその罪を問うているのです。それは又、生けるキリストの体としての教会を主がかくも愛しておられる、ということであります。
私たちは、そのような主に対して如何に誠実であるかが、ここに問われているのです。
先ほど詩編111編を交読いたしましたが、その10節に「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」と謳われていましたが。彼らが本当の意味で、「神を畏れる」者であったのなら、こういう事態にはならなかったといえます。
本日の箇所から「神へのささげもの」と題し、み言葉に聞いてきましたが。
私たちはまず、主の十字架のあがないという犠牲のもと、主の貧しさと豊かさに与り、生かされている者であるということを日々忘れないようにしたいと思います。そして恵みのうちに、「御神の命の息」によって私たちも又、一つとされていることを覚え、ささげ、分かち合い、共に主の栄光を現わすため用いられてまいりましょう。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。